あざとシロと出題者2


 明日は定休日だ。店長たちは早朝から釣りに行くそうで、家で少しでも寝るんだといって急いで帰っていった。
 あれから一週間たち、体中にあったあざもようやく消えた。しかし、階段を落ちてから翌日の朝までの空白の記憶はまったく思い出せなかった。会社の人たちからは何も言われないし、財布もカバンもタクシーの領収書も忘れなかった。記憶がないだけで普通の行動をとっていたんだろう。ただ一つだけいつもと違っていたのは、玄関のカギをかけ忘れていた。
「紺野くん、紺野くん」
 街灯の下を長身の影が走ってきた。
「どうしたんですか? 織田さん」
「いや、ちょっと外してたら紺野くん消えてたから」
「何か用事ですか?」
「ラーメン食いに行こう。俺おごるよ」
「いいんですか?」
「いいの、いいの。じゃあ行こう」
 ラーメンを食べた後、織田が家にくることになった。店からアパートまで、歩いて五分もかからない。途中にあったドラッグストアで織田はビールを買った。飲まないかとすすめられたが断った。
 
「あざ消えた?」
「はい、ほとんど」
「寝るのも辛かったんじゃない?」
「横向いて寝てましたよ」
 テーブルに缶ビールが三つのっている。ワイシャツ姿の織田は一つ目のビールをかたむけた。俺も水の入ったペットボトルを口に運んだ。テレビでは野球をやっていた。
「野球好きなんですか?」
「んん、好きってほどじゃないよ。学生のときは野球やってたから選手も知ってたけど、今じゃさっぱりだね」
「へえ」
「紺野くん、服着替えたら? スーツあんまり持ってないだろ?」
「あ、はい。じゃあ」
 スーツをハンガーにかけ、着替えを持って洗面所に入った。ワイシャツを洗濯機に投げ入れTシャツをかぶる。鏡にうつった自分の背中が目にとまった。肩甲骨のあたりから腰まであった、まだら模様が消えている。
 明かりを消して部屋に戻った。織田はまだ一つ目のビールを口につけていた。
「ほんとに飲まない?」
 新しいビールをかかげた。
「いや、当分酒は控えようと思ってるんです」
「ここなら階段から落ちることもないよ」
「はい、まあそれもあるんですけどね」
「他に何かあるの?」
「覚えてないんですよ」
「何を?」
「何もかも、全部です」
「どういうこと?」
「階段ですべったのは覚えてるんですけど、そのあとはまったく記憶がないんです。気がついたらベッドで寝てました」
「それはすごい」
「今までこんなことなかったんですけどね。だから一応控えとこうかなと思って」
「へえ。で、なんかやったの?」
「それが全然。財布もカバンもあるし、スーツはかけてるし、服も着替えてるし。おかしいことは一つもないんですよ」
「毎日の習慣かな」
「そうなんですかねぇ」
「そういえば、誰がタクシー呼んでくれたんですか?」
「ああ、俺だよ」
「すいません、迷惑かけて」
「いやいや、紺野くん普通だったから気にしないで」

「あ」
 口を開けたまま、織田がテーブルに視線を落としていた。
「え?」
「ごめん。ちょっとこぼした。ティッシュは?」
「待ってください」
 キッチンから布きんを持ってきて、テーブルにできた小さな琥珀色の水溜りにのせた。
「悪いね、紺野くん。でも、ティッシュは早く買ったほうがいいんじゃない?」
「買おう買おうとは思ってるんですけど、仕事から帰ってくるころにはすっかり忘れてしまって。明日こそ買うつもりです」
 ビールが染み込んだ布きんを流し台で洗った。きつく絞った布きんでもう一度テーブルを拭く。
「あれ、ティッシュないって話、織田さんに言いましたっけ?」
「ううん、探したらなかったから」
「そっか」
「前に」
「え」
「来たとき」
「ええ?」
 織田は目を細めてビールを飲んだ。

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