あざとシロと出題者1


 五月も下旬だというのに歓迎会をやるといわれた。六月に移動が決まっている人の送別会と俺の歓迎会を合同でやるらしい。
 連れて行かれたのはビルの二階にある小さな居酒屋だった。店長のお得意さんが経営している店だと聞いた。
 大学を卒業して、俺は営業マンになった。毎日客に商品の説明をして、違うのはショールームか外回りか。今年は四月でも二十度を越す暑さで、スーツにカタログの入った重たいカバンで歩き回ると汗で背中のワイシャツがはりついた。
 営業をするというと、胃に穴が開くとか禿げるとか言われていたが、思いのほか充実した社会人生活を歩んでいる。それというのも、同じ店舗で働く先輩たちに恵まれていた。営業の仕事は歩合制で個人競争だから、俺たちはみなライバルだ。自分の顧客リストを一人でも増やしたいし、みんなより一つでも多く売りたいと思っている。しかし、俺が配属された店舗は違った。予定が入っていると平気で自分の客のところへ同僚を行かせるし、ショールームに来た新規の客は全部俺にまわしてくれた。
「紺野くん、釣りしない?」
「いえ、一度もやったことないです」
「ええ、面白いのに。実はさ、うちの会社は何故か釣り好きが多くてね。いつのまにか釣りクラブができちゃって、定休日にはみんなで遠出してるんだよ」
「それは聞きました。でも俺、釣りはあんまり」
 それは残念といいながらも、店長は俺の隣でずっとグレを釣るのがどんなに面白いかについて語っていた。普段はにこにこしている店長も、お酒が入ると人が変わるようだ。今度から注意しようと頭にインプットしてジョッキをあおった。反対のテーブルの端で、同じように絡まれている人物がいた。織田だ。口だけで笑うと向こうも気付いて、話し相手がいない側の頬を上げた。
 飲み代は会社が出してくれるので、店長が先に会計を済ませた。靴を履いて立ち上がると、何かがさっと落ちた。
「紺野くん大丈夫か?」
 レジの前で小さく屈んでいた。立っていたはずなのに。
「大丈夫です。ちょっと立ちくらみしたみたいで」
「気分悪いか?」
「全然平気です」
 ビールは二杯しか飲んでいない。ほろ酔い加減で気持ちがいいくらいだ。酒は強くないが、この程度でふらつくほどではない。学生のときとは違って友人と飲みに行く時間がなく、久しぶりに飲んだせいだろう。
 狭い階段を下りながら明日の予定をたてる。明日も天気はいいだろうか。たまった洗濯物を干して、銀行にいって本屋にも寄ろう。昼飯は近所の安いうどん屋ですませよう。
 先を行くおじさん連中は次の店に行くようだ。若い俺たちが早々に退却だ。歳をとると仕事上の関係でも、ないと寂しくなるのかもしれない。壁に手をそえると靴底にあった階段の角の感触がするっと消えた。

 翌日は仕事が休みだった。俺は昼近くになっても、ふとんの中で考え事をしていた。するつもりだったことは全部できなかった。窓の外は久しぶりの雨で気温も肌寒く、洗濯物は干せそうになかった。外出するつもりだったが、体が油のきれたロボットのような動きしかできない。ズボンの裾をまくると、足には鮮やかな青色で模様が描かれていた。
 階段から落ちたんだ。足元がすべったからまずいなと思った。確か、あと数段で地上に着くところだったからそんなに酷くないはずだ。多くて五段くらいだろう。
 そこでやっと俺は、自分の脳味噌に驚いた。階段をすべったあとの記憶がない。体にあざができているが、落ちた時の痛みは覚えていない。どうやって家に帰ったのかもまったく記憶にない。
 ベッド脇に通勤カバンが放ってある。中身は商品のカタログや価格表、地図のコピーなどが入っているだけだ。いつも通り、カーテンレールにかかったスーツの内ポケットに手を入れる。ざらついたものが指をかすめる。取り出して財布をあらためる。五千円札一枚と千円札が三枚入っていたはずだが六千円しかない。小銭入れの口を開くと丸められた紙が入っていた。それはタクシーの領収書だった。あの店からタクシーでここに帰ってきたようだ。会社の人間が呼んでくれたんだろう。
 洗面台の鏡にうつった顔にはあざがなかった。階段を落ちたときに頭を打ったせいで記憶がないのかと思ったが、頭にも異常はない。洗面台の取っ手に触れた。何もない。洗面台の横のバーにかけてあるバスタオルで顔を拭いた。バスタオルは乾いていた。後ろの洗濯機をのぞく。シャワーは浴びなかったが下着までちゃんと着替えたらしい。ワイシャツ、靴下、パンツを丸めて放り込んである。その上に四つに折りに畳まれた白いタオルがのっていた。それは濡れているようで、ワイシャツの下にあるパンツの灰色が透けてみえた。
「紺野くん、一昨日は大丈夫だった?」
 へへへと笑って、はっきりしない相づちをうつ。
 この一連の流れは出社してから六回目だ。階段を踏み外したときに一緒だったので、みんなは心配して声をかけてくれるが、俺には何とも返しようがない。覚えがないんだから。
「体大丈夫か?」
 縦に長い体を曲げて、織田に顔をのぞきこまれた。
「はい、全然平気です。あざがすごいんで触ると痛いですけどね」
 ズボンに隠れていた足を見せた。コーヒーを配っていたフロントの林が高い声をあげて、俺の足に顔を近づけてきた。
「一昨日の、こんなになったんですかぁ。ひどいですねぇ」
 彼女は派遣の女の子で、俺より若い。
「紺野さん、すね毛少ないですねえ。色も薄いし」
「え? そうかな」
「うらやましい」
「林さん、そういう発言はセクハラになるよ」
「ええぇ?」
 林が振り向くと、織田は口の端をあげて笑っていた。

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