ハクの見る空 19
「勝手に連れてきて悪かったな」
小さく千切ったパンを口に入れてくれた。口を動かしながら何のことだろうと首を傾けて目で聞いた。
「お前の気持ちの整理がついてから一緒に住もうと思っていたんだが、意識が戻らないお前をどうしても手元に置きたかった。目覚めたら一番最初に会いたかったんだ」
詫びるように小さく頬にキスした。
「気にするなよ。…俺も、ハーウェルがいてくれて嬉しかったから」
ハーウェルの右肩に頭を預けた。俺の腰にまわった腕がぎゅっと締まる。
色覚異常になって目が覚めたとき、ハーウェルが傍にいてくれて本当に助かった。どうしてこうなったのかわからないし、この先に不安もあるけど、ハーウェルが隣にいるという精神的安定感で大した混乱もなく現実を受けとめられた。ハーウェルはいつも必要なときに、俺の求めている安らぎをくれる。
ハーウェルはいつの間にか食事を終え、フルーツに手をのばしている。
食べるのが早いので俺が口に運ぶスピードが追いつかず、半分以上は自分で食べたようなものだ。俺は放り込まれた食べ物を咀嚼するのと、ハーウェルに食べさせるのとで容量オーバーだった。
房からとった葡萄の実を一粒咥えて顔を近づけてきた。ハーウェルのやりたいことがわかって、あまりの恥ずかしさに目が眩んだが意を決して口を開いた。ハーウェルの口から半分出た葡萄の実は思いのほか大きかった。顔を横に倒してハーウェルから実を奪い取る。口に含むと舌が追いかけてきた。大きな実はすぐ見つかってしまう。舌が絡んで大人しく明け渡すと何かが口内へと流れ込んだ。葡萄の甘酸っぱい香りが広がっている。繋がった二人の間でハーウェルが葡萄の実に歯を立てたんだ。唾液と違って幾分さらっとした果汁は、ハーウェルの唾液に混じって甘い気がした。
押し込まれた半分の実を食べていると、口から溢れた滴を舐められた。
「甘いか?」
聞かれて、俺は返事に困った。戸惑っているのに気づいたハーウェルが「どうした?」と心配してくる。
「実はさ…。俺、味わかんないんだ」
虚を衝かれたように止まってしまった。俺はわかりやすいように、詳しく説明を始めた。
「前はちゃんとわかってたんだよ、でも急に食べ物の味が全然わからなくなって。最初は体調のせいかと思ってたんだけど、元気になっても味はわからないままでさ。熱いとか冷たいとかはわかるけど、何を食べても味がしないんだ。だからこの葡萄も匂いで葡萄だってわかるけど、味は…」
頭を横に振った。
「味がわからないのか…。いつから?」
「えっと…もう一週間以上になるかな。気づいたのは、あっ……うぅ…ハーウェルと初めて、その…したとき作ってくれたミルク粥から……」
「あの時からわからなかったのか…」
肩を落として俯いてしまった。
あの時は知らなかったけど、きっと料理なんかしないだろう、王子であるハーウェルが自ら作ってくれた。気持ちを込めて作ってくれたんだろうに、俺は味わえなかった。
「折角作ってくれたのにごめんな」
肩をそっと撫でて、頬にキスした。
「そんなことはどうでもいい。どうして早く教えてくれなかったんだ」
「俺がいた世界ではよくあることなんだ。それを知ってたから気にしなかったし、初めは熱があったせいだと思ってた。……ごめん」
「…他に、俺に黙っていることはないか? 痛いところや異常を感じるところはないか?」
「ないよ」
「本当か? もっと考えてから言え」
「う、うーん……やっぱりない」
「もっと、よく考えろ」
「え、あっ…ちょっと」
腰に回っていた手が腰骨をゆるゆると撫でた。腰が痙攣して、ハーウェルの膝の上でびくびくと跳ねた。瞬間的に目の前にあった首に縋りついてしまったが、こいつはやっている張本人だ。
「体に異常はないのか? 本当に?」
耳にいやらしく吹き込んでくる。浮いていた尻に手が這う。手のひらで撫でてから、肉付きでも確かめるように揉みはじめた。
「こういうのは、セクハラって言うんだぞ!」
イタズラな右手をぺちんと叩いて払いのける。
「なんだ、その『せくはら』というのは」
「え、と…一方的にエッチなことしたり言ったりするって意味!」
俺がしゃべっている間に、今度は左手が太ももに触れて内腿へと滑っていく。
「ほう。その通りだ、と言ってやりたいが……違うだろう?」
左手も払おうと手をのばすと、右手がのびてきて手首を掴まれた。腿を跨がずに座っているし足が床に着いていないしすごく不安定な体勢なので、ハーウェルの首にしがみついている左手は使えない。
「なんで?」
「一方的ではなく同意を得ているからだ」
足先で夜着の裾を引っかけ自由な左手を差し入れてきた。足を閉じてハーウェルの手を拒んでいると、膝頭を触れるか触れないかの微妙なタッチでくすぐってくる。
「っ誰が! 俺は食事の途中だって!」
「心配するな。俺がたっぷり食べさせてやる」
そう言いながら、耳たぶを柔らかく噛んだ。熱い呼気が首筋を撫でてぞくぞくするのを、頭を振って耐えた。
「ふっ…なんか、言い方がいやらしいんだよ!」
「ハーウェル王子!」
「殿下、お取り込み中失礼いたします」
「うぇええ!!」
予想もしなかった第三者の声に驚いて、ハーウェルの上から落ちそうになるのを抱きとめられた。躍る胸を押さえて振り返ると、二人の男がこちらを向いて立っていた。
ハーウェルから紹介されたギルビスとラウルを前に、逃げ出したい衝動を抑えて挨拶した。
「折角いいところだったのに、無粋なやつらだ」
なあ、と話をふられて俺はぷいと反対側を向いた。
二人に気づいてハーウェルの上から飛び退いた俺は、場所をソファーに移してハーウェルの隣に座っている。不意に現れた二人に別段驚いた様子もなかったハーウェルだったが、それも当然でこいつはノックの音に最初から気づいていたらしいのだ。
「俺たちが来なきゃ、朝っぱらからこんなところで押し倒してただろう」
大げさに顔をしかめたのはギルビス。体躯はハーウェルより堅強そうだが、細くて少し垂れた目が柔らかい印象を与える。
「私たちだって、ハーウェルの大切な方に早くお会いしたかったんですよ。独り占めするのは今夜にしてください」
にっこりハーウェルに微笑んだのがラウル。でも、全然笑っていない気がするのは穿ちすぎだろうか。この人もハーウェルほどではないが良い身体つきをしている。
体調を訊ねられて大丈夫だと答えると「これからのことを話そう」そう言って、教えられた内容は驚きの連続だった。
ハーウェルが次期国王で、いわゆる皇太子であること。建国祭で行われる即位式までもう一ヶ月もないこと。そして国王になって落ち着いたら、俺を后にすること。それまでは俺の存在は内緒で、この部屋から出られないし誰にも会えないこと。
「后って…俺が? おれ、男だよ?」
衝撃がありすぎて、頭がうまく働かない。俺は瞬きするのも忘れて視線を彷徨わせた。
「エヌオットでは、愛し合うもの同士であれば性別を問わず婚姻が認められる」
「でも、后って……。ハーウェルが王様になったら俺はエヌオットの王妃様、になるってこと?」
問いかけると、ハーウェルは静かに頷いた。
「無理だって。俺そんな偉い人になんかなれないよ。ムリムリ!」
俺は胸の前で開いた手のひらと頭を小刻みに振った。
王妃とか意味がわからない。
俺が王様の横に立つの? 男だし、何のとりえもないこの俺が? できるわけないよ!
頭を抱えた俺の肩を、逞しい腕が捕まえた。顔を上げると顎に手を添えられる。今は薄い灰色にしか見えない瞳に俺が映る。
「ハク…、俺を愛しているだろう?」
「ふ、…ん」
「俺が国王になっても、傍でずっと支えてくれないか? いや、…そうじゃないな」
ハーウェルは床に膝をつけて、ソファーに座る俺の目線に合わせた。腿にのせていた両手が大きな手に包まれる。
「王子でも王でも、そんなものはどうだっていいんだ。俺はこの命ある限り、ハク、お前を愛する。…ついてきてくれないか?」
「…うん」
王子だとか王だとか、后になるとかならないとか関係なく、ハーウェルが俺を求めてくれるんだったら応えないわけにはいかない。
この前、ハーウェルが王子様だって知らされたとき思ったんだ、俺が好きになったのはハーウェルという人間で、どんな身分でもこの気持ちは変わらないって。王様のハーウェルと一緒にいるためだったら、そばに置いてくれるなら后でも何にでもなってやる。
痛いくらい見つめてくる瞳に吸い込まれそうだ。実際にどちらともなく顔を寄せていたようで、あと少しで唇が触れるというところで、二人の影が視界の端に入った。
「なっ!」
寸前でハーウェルの顔を押し戻した。
ハーウェルが腰を落ち着けると、
「ハク様、我らがハーウェル王子をよろしくお願いいたします」
ラウルが畏まって言う。ギルビスもそれに倣い、二人はソファーから立ち上がって慇懃な態度で片膝をつき腰を折った。
「なっ! やめろよ、二人とも。俺みたいなガキに」
ソファーを下りて顔を伏せている二人を覗きこんだ。肩を押し上げてどうにか止めさせ、俺はほっとため息をついた。
「ほんっと、やめてくれよな。ハク様とかありえないし、大の大人に頭下げられて居心地悪いったらねぇよ」
「ハク、そうは言うがな、お前は后になるのだから。臣下が主に頭を下げるのは当然のことだ」
「当然なわけあるか。ハーウェル、友だちだろう? さっきまでの砕けた喋り方がいいよぉ」
肩を竦めて「だ、そうだが?」と二人に問いかけた。
「ハーウェルの言っていた通りだな。顔は綺麗だが、話してみると可愛らしいというか、愛嬌があるというか」
「ええ、ハーウェルの相手がハクでよかったですよ。私たちは、主君は選べてもそのお后様は選べませんからね。かしずく相手がハクで、私も嬉しいよ」
三人から微笑まれて、俺は更に身を小さくした。
ギルビスとラウルの改まった口調と様付けをやめさせることに成功したが、次はなぜか俺を褒めちぎりはじめた。
ハーウェルにくっついて、隠れるように体を縮ませていた。
「その黒い目に黒い髪、確かに今まで見たことないな。夜の闇よりも黒いが、瞳も髪も艶やかで美しい。白い肌と対照的で、どちらも引き立つな」
「ハーウェルが心配するのも無理はないね。美しいうえに純粋で、この瞳で真っ直ぐ見つめられるとイケナイ気持ちになりそうです」
むすっとした態度で聞いていたハーウェルが、おもむろに口を開いた。
「二人とも、判りきったことばかり言うな。ハクが美しく愛らしいのは俺が一番知っているし、ハクにはいつも俺が説き聞かせてある」
それにだな、と身を乗り出して続ける。
「普段のハクは溌剌として可愛いが、閨でのハクは淫猥で艶かしいんだぞ。俺にはその落差が」
「ハーウェル!! なんつうこと口走ってんだよ、あんた。ギルビスとラウルだってそうだ! 俺を褒め殺すつもりか?!」
飛び上がって、これ以上の爆弾発言を阻止した。声を荒げたにもかかわらず、三人とも平然とした顔をしている。ひとり肩で息をしている俺がバカみたいだ。
「何を言うんだ、ハク。事実ではないか」
「そうですよ。私たちも思ったことを正直に述べたまで。ハクは称賛に値します」
「うるさい! もうやだ。あんたら、誰のこと言ってんだよぉ。……これは羞恥プレイの一種か? おれ、恥ずかしすぎて、悶絶死しそう…」
駄目だ。こいつらなに言っても聞かない。
ソファーに身を投げ出して、髪の毛を掻き乱した。
「褒められて恥ずかしいなんて、慎み深いねぇ」
「ハーウェル、よくやった。外見にしか興味のなかったお前が、あんないい子を捕まえてくるとは思わなかったぞ」
ギルビスがぱんと肩を叩く。
「ハクなら王妃になっても、国民から慕われるでしょうね。王宮内でも人気が出そうです」
部屋にハクを残して、三人は隣にあるハーウェルの書斎に移動していた。ハクには仕事のことで話し合うと言ったが、本当はハクのこれからの処遇について話し合わなければならなかった。
書斎の一角にある向かい合ったソファーに座り、三人は頭をくっ付けるようにして話していた。
「巫については慎重に説明していったほうが良さそうですね。王妃という身分に戸惑いを感じていたようですから」
ラウルの言葉に他の二人も頷く。
「ハクは控えめな性格だ。后にすることを黙ってここで一緒に住もうと話したときも、俺の立場に遠慮してすぐには了承してもらえなかった。最終的には俺への愛が勝ったようだがな」
にやにやとほくそ笑みながら「まあ当然のことだ」と付け足した。惚気るハーウェルを気にも留めずに、ギルビスが話を戻す。
「エヌオットの王妃様になるんだ。もうちょっと尊大にしてくれても構わんのになあ」
「ハクには無理だと思うよ。私たちが敬語や敬称をつけるのさえ嫌がったんです。自分のこれからの立場を理解して、途端に横柄な態度になられても扱い辛いですよ。…ですが、あまり慎み深いのも困りますね。巫として公に存在を認めさせてから、エヌオット王妃に必要な知識、慣習、作法を学んでいただきましょう」
「お前は后として巫として国王と共にエヌオットを治めるんだ、なんて言ってみろ。荷が重すぎて、あの体じゃ潰れちまうぞ。どうするんだ?」
「俺やお前たち二人もいる。ハク一人が背負うわけではない」
「もちろんわかっていますが、ハクが理解してくれるかどうか…。巫は特別な立場です。この世に一人しか存在しない。それが自分だと知ったら………」
顔を曇らせたラウルに、ハーウェルとギルビスにも同じ表情が浮かぶ。俯いていた顔をぱっと上げると、一度口をきゅっと結んでから開いた。
「私は、即位直前までハクには巫の話を黙っておこうと思います」
「引き延ばしても仕方ないんじゃないか? 俺たちでゆっくり話して聞かせようぜ」
頭を横に振りながら答える。
「一度に説明しても、ハクに受け入れてもらうのは難しいですよ。まずは、ハーウェルは巫という存在を得なければ国王の座につけない、ここまで伝えましょう。それには、王家の伝書についても明かさないと話が進みませんね。次に、巫としてハーウェルと共にエヌオットを治めて欲しい旨を明かしましょう。最後に、巫がどのような存在なのか話しましす。これが一番肝心なところです。自分が神の化身でエヌオットを災いから救い、さらなる繁栄へと導く先導者だとは…。信じさせるには時間がかかります」
「にわかには受け入れられんだろうな。事実、あいつは本物の巫じゃないんだし」
「ギルビス! ハク自身に信じてもらわなければ困ります。王宮だけでなく、国中を欺くのですから」
重々しい口調で二人に視線を流した。
「…俺が話そう」
黄金色の瞳が寝室へと続く扉をちらりと見た。
「お願いします。ハーウェルとハクの心がしっかりと結ばれていれば、どんな話を聞いても最後は受け入れてくれるでしょう。巫についての話をする前に、現在以上の信頼関係を築いてください。どんなことがあっても壊れないような」
「わかっている」
「ハクが本物だったらなぁ…」
ソファーに踏ん反り返ったギルビスが、ため息混じりに呟いた。ラウルは呆れ顔で隣に座るギルビスに向きなおる。
「わかってませんねぇ。……真偽の程に係わりなく、説得に骨が折れるのはどちらも同じでしょう」
「ん〜、そりゃわかるがな…」
背もたれに頭を倒して、寝室に向かう扉を逆さに見つめた。
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