ハクの見る空 18


 ここ、どこだ?
 俺は広くて薄暗い廊下を歩いていた。時間の感覚が酷く曖昧だ。昼にしては暗いし、夜にしては明るい。先ほどから歩いていて誰にも会わないのは夜だからだろうか。だが明かり窓もついていない廊下がぼんやりと明るい。
 そうだ、この感じ……前に見たピサリの夢に似てる。
 思い至った途端、悪い胸騒ぎを覚えた。あの夢でピサリは火事に見舞われたのだ。心臓の動きに押されて、胃の内容物が上がってきそうだ。吐きそうになりながらも、俺はひたすら歩いた。廊下の先で答えが待っている気がした。
 途中、わずかに隙間の開いた扉を見つけた。今までも扉はあったがどれもしっかり閉じられていた。取っ手に手をかけなかの様子をうかがう。ジュゼルに初めて出会った部屋のように、長椅子とテーブルが置かれたシンプルな部屋だった。広いが遮る物がないので一目で見渡せる。何の変哲もない部屋、だが俺の足は室内の床を踏み締めていた。鏡のように部屋を映した窓に歩み寄っていくと、おかしなものが目についた。
 それは床に落ちた黒い帯だった。長椅子の向こう側に二本、寄り添うように並んでいる。長椅子を回りこんでみると、帯ではなく人の形をした黒い影だと気がついた。影の足元を辿ってみても、当然あるはずの人間が存在しない。影は長椅子に座って体を近づけていた。二つの影が話をしているように見える。
 食い入るように影を観察していると、どこからか声が聞こえてきた。

「…必ず飲んでいただきなさい」
 手前の影が、手に持った何かをもう一つの影に握らせた。声の持ち主はこの影のようだ。俺の頭の中に直接響いてくる。
「そなたの目の前で飲んでいただくのです」
「ですが、……咎められませんでしょうか? 本当は強壮剤ではなく…その、……精力剤なのでございましょう?」
「大丈夫です。そなたのような美しい者に求められて嫌がる男がおりますか。案ずることはございません」
「…はい」
「上手くおやりなさい。さすれば、そなたは次期エヌオット国王の側室座に」
「わかっております」
「では必ず、この薬をハーウェル皇太子に」
 受け取った薬が黒い影の中でぼんやりと光り出した。呆然としていると、鈍い光に紛れて誰かの意識が流れ込んできた。

 違う、それは薬じゃない!
 強壮剤を装った精力剤だと言っていたが、それも嘘だ。あれは…毒だ。含まれる量が少ないから、すぐ死に至るようなものではないが、飲めば確実に寿命を縮める。
 ハーウェルを貶めようとしている者がいるんだ。首謀者が誰だかわからないけど、早くこのことをハーウェルに知らせないと。

 目を開けると景色が変わっていた。いつか見た天蓋付きベッドがある。そこに寝ていたのはやっぱりハーウェルだった。
 ハーウェル? ハーウェル、起きて。誰かがハーウェルに毒を盛ろうと企んでるんだ。綺麗な人が毒を持ってて、強壮剤だって渡してくるはずだよ。その人は精力剤だって聞いてるけど、計画したやつに騙されてるんだ。早く起きて毒と犯人を見つけてよ。ねぇハーウェル。お願いだから起きて俺の話を聞いて、ハーウェル。ハーウェル、あんたの弱ってる姿なんか見たくねぇよ。早く、……起きろよ!




 薄く目を開けると見慣れない光景が広がっていて、すっかり目が冴えてしまった。目を瞬かせて手の甲で目を擦った。
「ハク? 目が覚めたか」
「…ハーウェル?」
 どうしてハーウェルがいるんだ? 俺はどこにいるんだ? 今まで何してたっけ…。いや、それよりさっきの夢の話をハーウェルにしてないと。
 目を擦りながら体を起こそうとしていた俺は、肩を押されてベッドに戻された。手を取られて目を開くと、ハーウェルが覗き込んでいた。
「そんなに擦ると腫れてしまうぞ。…気分はどうだ?」
「いいけど……、俺どうして?」
 横になったまま辺りを見回す。楽芸館の自分のベッドとは比べるのも気が引けるほど大きなベッド。体を包む寝具もふかふか、するりと肌に滑る布地は絹だろうか。ベッドの周りはレースのカーテンのようなものが引かれていて部屋の様子ははっきりしない。でも、すぐそこに壁があるような狭い空間ではないことは確かだ。
「ここ、どこ?」
「ここは俺の私室だ。本当に大丈夫なのか? 丸一日寝ていたし、ずっとうなされていたぞ」
「……いま夜?」
「ん? 朝だぞ」
「あさ? 今日は雲ってるのか?」
「何を言っているんだ。朝日が差し込んで明るいだろう?」
「どこが?」
「…ハク? どうしたんだ?」
「え、だって暗いじゃないか。ふざけてるんだろ? 悪い冗談はよせよ」
 俺は笑おうとしたが、頬が引きつって上手くいかなかった。ハーウェルは傷ついたような顔をして何か呟いたと思ったら、いきなり上掛けを剥いで俺の体を抱え上げた。
「な、なに?!」
 驚いて首にしがみついたが、ハーウェルは何も答えなかった。無表情で俺を抱えたまま歩いていく。得体の知れない不安が俺の心を揺さぶる。
 壁際までやってくると、近くにあった窓を片手で開けた。両脇に手を入れて俺を窓枠に座らせると、落ちないようにしっかりと抱きしめてくれた。
「ハク、見えるか」
 何が、とは聞かなかった。腰にまわったハーウェルの腕を掴んで、少し体を倒すと真っ白な空が見えた。眩しさを感じてその源を探すと、白い空の中で一点の曇りもない抜けるような白い部分があった。たぶん、これが…太陽。
「あった…けど、……色がない」


 ハーウェルが呼んだ医者に診てもらったが、目に異常はないそうだ。体のどこにも不調はなく、目以外は至って元気だ。原因がわからないといった医者に、凄い剣幕でハーウェルが詰め寄っていた。

 俺は色覚異常になった。

 楽芸館の物置部屋で寝たときは、確かに色があった。暗がりでもなんとなく色はわかる。よく眠っていたのか気を失っていたのかわからないが、次の日心配したオルハイノが見つけてくれたのに俺は全く起きなかったらしい。その日はハーウェルが迎えに行くと約束してくれた日で、夜になっても約束の場所に現れない俺を心配して宿舎に使いをやって、目覚めない俺のことを知ったのだ。ハーウェルはすぐに俺を宿舎から自分の部屋に移して見守ってくれた。
 そして今、ハーウェルのベッドで目覚めた俺の世界は黒と白しかなかった。写真や映画のようなモノクローム。
 頭を強く打った痕もないし、精神的にショックを受けたわけでもない。物置部屋に閉じ込められたときも恐ろしさは感じなかった。何が原因でこうなったのか、さっぱり自分でもわからない。

「ハク、気を落とすなよ」
 ハーウェルがベッドに腰掛けて抱きしめてくれた。
「平気だよ。びっくりしたし、慣れるには時間がかかるだろうけど、色の濃淡で明るいのもわかるし、色がわからないだけでそんなに支障はないよ」
「俺がお前に色を教えよう。ずっと一緒にいるからな」
 労わるように優しくまぶたにキスされた。俺はくすくす笑いながら身を捩ってハーウェルの胸を押し返した。
「何言ってんだよ。王子様だろ。仕事しろよ」

 二人でベッドに座って抱き合いながら、お互いをくすぐったり髪を弄ったりしていちゃついていた。
「そうだ、腹が空いただろう。何か持ってこさせよう」
 くすぐりあいっこはいつしかエッチな雰囲気を作りだして、朝からは不味いだろうと頭の隅で考えていたので助かった。
「すっかり忘れてた。俺、一日何も食べてないんだよね」
 指摘されてからようやく自分の空腹具合に気づいた。腹をさすっていると、ハーウェルが扉に向かって声をかけた。
「バンディ、食事の用意を」
「え?」
 ハーウェルの言葉を待っていたかのように、すぐさま扉から朝食がのせられたカートが現れた。長い髪を後ろで結った給仕の男が、食事をどこに置こうかと聞いている。
「病人じゃないんだからそっちで食べるよ」
 ハーウェルの替わりに答えて、扉の近くにあるテーブルを指さした。ベッドを降りて、テーブルに二人分の朝食を準備する男に近づく。
「ありがとう。あんたが本物のバンディなんだね」
「は? 本物?」
 心の底からわからないというように聞き返す様は、俺がしたなら絶対間抜け面だけどバンディがすると全然違う。頼りなげに揺れる瞳は薄いグレー。本当の色はわからないけどきっと綺麗な色をしているに違いない。わずかに小首を傾げているのに媚びるような印象はなく、素直で飾らない人柄がうかがえる。
「美人だなぁ。初めまして、俺はハク」
 握手を求めて手を差し出すと、バンディは俺の後ろをちらっと見て伸ばしかけた手を引っ込めた。
「もういい下がれ」
 軽く頭を下げて出て行ってしまった。俺の手は虚しく取り残された。

「なんかイメージと全然違う人だったなぁ。ハーウェルの話聞いて、凄い気障で鼻持ちならない男前かと想像してたけど、大人しそうでめちゃくちゃ綺麗な人だよね。女の人でもあんな美人滅多にいないよ。憂いを含んだ表情っていうのかな、どっか儚げでいいよね。だからモテるのかな」
 俺はついに会えた本物のバンディに興奮していた。ハーウェルが名を借りた人物というだけでなく、とても美人だったからだ。ジュゼルも美人だと思うけど、どちらかというと冷たい感じがする。対してバンディは柔らかい、というか脆そうな感じだ。でも体の線が細いとか病弱そうなわけじゃなくて、表情、瞳のせいじゃないかな。儚さの美学とでもいえばいいのか。
「ハク、恋人の前で他の男を褒めるな」
 小さな声だったのに、いつもより一段低いその声はハーウェルの機嫌を表情より如実に現していた。
「え……あ、ごめん。別に深い意味があったわけじゃなくて。そりゃバンディは綺麗だけど、俺が好きなのは…あんただから、変に勘繰るなよ」
「本当か?」
「信じろよ」
 子供っぽいとは思いながらも、ついつい口が尖がる。
「ハク、ここへ」
 席に着いたハーウェルがそう言って示したのは、自分の右腿。ぽんぽんとそこを手のひらで叩いた。
 そちらに座れとぉおおおおお??!!

「食べさせてくれないか? ハクには俺が食べさせる」
 俺に手をのばして、爽やかに笑った。しかし、言っている内容は爽やかな朝に似つかわしくない。
「うっ…た、食べさせっこするのか?」
 後込みしていると、ハーウェルの顔が曇っていった。のばしていた手も引っ込めてしまったので、俺は慌てて飛びついた。
「わ、わかったから!」
 ハーウェルは晴れやかな笑みを浮かべていた。



 バンディは今しがた追い出された主の部屋での一幕を思い出し、大きくため息をついた。
 昔、ハーウェルが夜な夜な街で遊ぶとき自分の名前を使っていたと話には聞いていたが、未だに人の名を騙っていたとは。しかもその相手を王子の私室の隣にある后の間に囲おうと言い出すとは思ってもみなかった。結局その言葉はハーウェルによってすぐに訂正され王子の私室に引き入れたが、皇太子が即位を目前にして密かに恋人を囲ったという事実に変わりはない。さらに、その相手ときたら―――

「バンディ、まだ目を覚まされんか?」
 扉から顔を覗かせているのは、王子の側近であるギルビスだった。顰めていた顔を取り繕う。
「覚まされました。今、朝食をお持ちしたところです」
「そうか。じゃあ、ラウル行くか」
 後ろにいるラウルに向かって話しかける。出ていこうとするギルビスを呼び止めて、二人を侍従の間に入るよう勧めた。扉を閉めると、大人しく従ったギルビスとラウルに声を潜めて話しかけた。
「二人とも、どうなっているんだ。ハーウェルはあんな子供を部屋で囲って育てるつもりか?」
 腕組みをして二人を見据えるバンディの物言いは、まるで母親のようだ。ギルビスとラウルも顔を見合わせて苦笑している。
 ハーウェルの子守兼教育係として子供の頃から接してきたバンディにとって、幼馴染であるギルビスとラウルはハーウェルと同じく出来の悪い弟か息子のようだ。人前では畏まっているが、四人以外の者がいなくなると昔の砕けた口調になる。

 ハクの年齢を教え落ち着かせようとしたが、バンディはまだ納得がいかない。
「即位前だぞ。お前たちがついていながら何故止めなかった。このことが国王陛下や長官たち、トゥルーフ王子の側近に知れたらどうするつもりだ!」
「わかっています。だから私たちで隠し通すのです」
「だが、連れてくる前にどうにか」
「ありゃ無理だ。バンディは見たんだろ? 二人の様子をさぁ。俺たちは見たことないけど……、どうだった?」
「ん、ああ…。俺を美人だとか言って褒めてくれたんだが、ハーウェルに凄い顔で睨まれた。握手しようと手を出されていたのに、手を握る前に追い出された。給仕の途中だったのに」
 ギルビスとラウルはお互いを見て、瞬時に顔を背けた。ラウルは顎を上げてどこかを凝視していたが、ギルビスは肩を震わせて唇を噛み笑いだしたいのを必死に抑えている。
「確かに本気かもしれないが、即位式まで一ヶ月もないんだ。もう少しだけ我慢させればいいだろう」
「無理だと思います。昨夜のハーウェルをご存知でしょう。彼が約束の場所に現れないと言って珍しく慌てていました。宿舎に使いをやって彼が行方不明のうえ意識を失った状態で見つかったと聞いて、すぐに彼を自分の部屋に連れてきたんですよ」
「あんなハーウェル見たことないだろ? 心配過ぎて仕事放り出して会いにいかれるより、一緒に暮らしてアツアツっぷりを見せ付けられるほうがよっぽどマシだ」
 目を瞑って大きな息を吐くと「仕方ない」と小さく漏らした。

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