ハクの見る空 17


 この部屋の主が姿を見せたのは日も暮れ始めた時間になってからだった。
「バンディ! バンディ!」
 扉を開けるなり侍従の名を連呼した。足早に部屋を横切り、侍従の控えの間を開けようとしたところで先に扉が動いた。
「なんだ」
「部屋の用意を頼む」
 唐突な物言いに、バンディの眉間に深い皺が刻まれた。
 侍従といえど、バンディはハーウェルの子守兼教育係を成人するまでの六年間勤めてきた。成人後は侍従兼秘書官として、合わせて二十年近く共に過ごしてきた。幼い頃から知っているので、ハーウェルにとって口煩い母のような、兄のような存在だ。
「丸一日空けていたかと思えば、帰ってきた早々何を言うんだ。で、どなたかいらっしゃるのか?」
「ああ、隣の部屋を与える。明晩には迎えられるよう手配しろ」
 大きく開いた目でハーウェルを見る。バンディの様子を全く気にすることなく、ハーウェルは「いや、隣は…」と一人考え込んでいる。
「おい、ちょっと待てよ、隣って……。その話は誰かに通してあるのか? ラウル様やギルビス様には相談したか?」
「まだだ」
「お呼びしてくる」
 苛立たしく舌打ちして部屋から出ようとするバンディを、ハーウェルは腕を掴んで引き止めた。
「待て。お前は準備が先だ。隣の部屋は止めて、この部屋にもう一人住めるようにしてくれ。ラウルとギルビスには他の者をやる」


 やってきたギルビスとラウルに、明晩ハクを連れてくると告げた。そして、ラウルからはハクを偽りの巫に据え置こうと提案があった。
「殿下、このことはくれぐれも内密に進めなければなりません。王家の伝書に記された王子と巫について、知る者は私たちと国王様の四人だけ。巫が実在する人物だと公にするのは建国祭の日です。それまで他のものにハクの存在を知られてはなりません」
「皇太子の身で后の部屋に恋人を囲ってるって知られりゃ、反感買うのは目に見えてる。お后候補の姫君でも、王族や貴族の娘でもないんだ。巫なら誰もが納得するだろうが、公表まではひたすら隠せ、何が何でも隠し通せ。俺たちも協力する」

「お前には反対されると思っていたが…」
 ギルビスは後ろで縛った長い髪をはらって、仏頂面で腕を組んだ。
「こいつに説得された。ラウルが大丈夫だというなら、俺は信じるしかない。……ただ、俺たちは俺たちで巫探しを継続させるからな」
 すかさずラウルが説明を補足する。
「大丈夫です。君たちの仲を裂くつもりはありません。見つかるかどうかわかりませんが、最後まで足掻かせてもらいますよ」
 詰め寄って「だから俺は…」と続けるハーウェルを片手で制した。
「例え本物が見つかったとしても、后にしようなどとは考えておりません」

「どうするつもりだ」
「側室に迎えようと考えております」
 恭しく腰を折ったラウルを視界から追いやるように体を背けた。目を落として痛みに耐える顔が一瞬垣間見えた。
「側室などいらん。それが例え本物の巫であっても」
「ですが、巫がいないと君は」
「ハクがいればいい」
 目を閉じたハーウェルが絞りだすように呟いた。
「ハクを巫として后に迎えれば万事上手くいく。俺と執政官に就くお前たち二人の力があれば、巫などという飾りは必要ない。もし本物の巫が見つかれば…どうするつもりだ? 国王と巫には深い絆が必要なのだろう。エヌオットのため、巫を抱けと言うのか?」
「そうして戴きたい」
 明言したラウルを毅然たる態度で見返した。
「断る。俺はハク以外と閨を共にする気はない」
 恋人であるハクに対する真摯な態度も然ることながら、巫がいなければ王になれない、という特殊な境遇に身を置いてきたハーウェル。それがどれだけハーウェルの自尊心を傷つけてきたか。間近で見てきた二人には、それ以上の言葉が見つからなかった。

「明日の夜には王宮に来るんだろ?」
 凍てついた空気に最初の一太刀を入れたのは、ギルビスの緊張感のない声だった。固まっていた二人もぎこちなく動きだす。
「なるべく早く会わせろよ。お前がそれだけ惚れてるんだ。どんなやつなのか興味がある」
「会うのはいいが、惚れるなよ?」
 片方の口の端だけをあげて不敵に微笑んだ。ギルビスは大げさにため息をついた。
「お前の恋人をとるわけないだろぉ」
「バカを言うな。絶対に報われんのだから、無駄なことはするなという意味だ」
 ハーウェルは如何にも心外だと言わんばかりに顔をゆがめた。
「自分からはもちろん恋人からも、他人の介入する余地もない程の愛を受け取っている、という……いわゆる惚気だね」
 ラウルは口元を握り拳で隠して、くすくす笑った。


「あいつ、惚れすぎてて怖いぞ。気持ち悪いくらいだ」
 暗くなった廊下を二人は並んで歩いていた。廊下を灯す小さな炎が幾つもの影を作っている。
「言いすぎです。いくら友人でもハーウェルは主君ですよ」
「お前も思わないのか?」
「思いますけど、口には出しませんから」
 ラウルは眉一つ動かさずに澄ました顔で答えた。
「俺はやっぱりハクが本物じゃないかと思えてならない。……希望的観測かもしれないがな」
 真っ直ぐ前を向いたギルビスの横顔をちらりと見て、足元に視線を落とした。
「私もそうあって欲しいと願っていましたが………あんな子供にはとても…」
 ぱっと顔をあげて深碧の瞳に光を探す。
「ハーウェルが会わせてくれます。ギルビスの目で確かめてみて下さい。…私とは、違う意見かもしれない」
「ああ。………二人でいるところを見れば、もしかするとお前の見解も変わるかもしれないしな」
 乱暴な仕草で肩を組んできたギルビスに「そうだといいね」と力なく笑った。




 夜目にもわかるほど、薄っすらとホコリを被った床を見下ろしていた。シンデレラの継母みたいに人差し指で拭ってみなくたって、これが床本来の色ではないことは見当がついた。硬く絞った雑巾で軽くひと拭きし裏返してみると、綿みたいな分厚いホコリがびっしりくっついていた。
「うへぇ」


 ハーウェルに送ってもらって宿舎に戻ったあと、大急ぎでジュゼルの部屋に行こうとした俺は呼び止められた。同じ芸人の舞手で何度か見たことのある顔だった。声をかけた主のほかにも四、五人後ろに控えている。そのうちの一人は、確かジュゼルのことで話を聞かせてもらったやつだ。
 楽芸館に入ってまだ一週間程度の俺にとって、ここにいる人間は全員先輩。オルハイノが言うには、体育会系の部活みたいな上下関係は存在しないらしい。芸事で身を立てているだけあって、実力主義のようだ。だから気負う必要もないがここは従ったほうが良さそうだと判断して、ついて来いという言葉に逆らわなかった。

 そして着いた先がホコリまみれのこの部屋。
 楽芸館の奥にある部屋で、俺は近づいたこともなかった。物置部屋のようで、使われなくなった楽器や机、本棚には本のほかにも大きな巻物みたいなもの、畳まれた敷物にカーテンのような布もたくさん積まれていた。
 部屋に入ると掃除用具一式を手渡された。
「掃除し忘れたみたいでね。物置に使われているから仕方ないけど、これではあまりにも酷いだろう? ホコリを拭き取るだけでもいいからやっといてもらえるかな」
「え、今から?」
 外は暗くなってきているし、この部屋には窓がない。室内を照らすのは持ってきた小さなランプ一つだ。
「今日は休みだったよね。体を動かした後に掃除するよりいいんじゃないかな? それとも何か用事でも……それはないか。君はここに入ったばかりだもんね。ここには古い楽器や踊りに使われる衣装もあるから、君にはいい勉強にもなると思うよ」
 そう言われると、ジュゼルの元へ行く用があると言い出せなくなった。言い訳が見つからなくて口をぱくぱくさせていると「じゃあ頼んだよ」と部屋を出ていってしまった。

「終わんねぇよぉ」
 雑巾を床とバケツの間で往復させていたが、ホコリの積もった白い床は果てしなく続いている。十畳くらいはある部屋だ。荷物のせいで面積がいくらか隠れているが、半分はある。この荷物も動かして拭くべきなんだろうか。
 こんな仕事押し付けられるんなら、もっと早い時間に送ってもらうんだった。今朝、というか起きると真昼をとうに過ぎていた。病人でもないのにベッドの中でご飯を食べて、しばらくいちゃいちゃして、お風呂に入ってもいちゃいちゃして…。で、気づいたら外が暗くなり始めてたんだよな。
 絶対に約束の時間は過ぎてる。一言ジュゼルに断ってから掃除したほうがいいんじゃないか。いや、この際明日の朝掃除するのはどうだ。扉を開ければ少しくらいは光が射すだろうから、何も真っ暗な夜中に掃除することはないだろう。誰も手伝ってくれないんだし、いつやろうが俺の勝手だ。

 掃除用具はそのままにして、部屋を出ようとドアノブに手をかけた。しかし、回るはずのノブはわずかに動くだけで扉は開かない。何度やってもがちゃがちゃと虚しい音がするだけで、それ以上は回らない。
「うっそーん」
 扉に額を当てて力なく呟いた。
 鍵がかかってる。
 見回りの誰かが、施錠し忘れたんだと思って鍵を閉めたんだ。誰か中にいないか声をかけてくれたらよかったのに…。
 目を瞑って扉の外を誰か通らないかしばらく耳を澄ませたが、自分が呼吸する音しか聞こえない。扉を叩いて助けを呼ぼうかと拳を振り上げたが、そこまでするのもみっともない気がしてやめた。こんな時間まで楽芸館に残っている人間はほとんどいないだろうし、今日は休みだったから望みは更に少ない。
 明日になれば必ず誰かが通るはずだから、一晩ここで我慢するしかないな。
 今夜の寝床を確保するために、再び雑巾を手に取った。




 オルハイノが踊りの練習をしていると、周りが騒がしくなったことに気づいた。練習を止めて、皆一様に同じ方向を見ている。視線の先を辿ると、芸人方の責任者が誰かと話していた。相手は男で細身だが引き締まった体格をしている。ちらっとこちらを見た顔に覚えがあった。
 あの男は……。
「オルハイノ!」
 芸人方の責任者が手招きしている。周りから痛いほどの視線を感じるが、知らぬ顔で歩み寄った。
「これが同室のオルハイノです」
 その紹介で、オルハイノは全てを悟った。
「あなたはもう結構です。ありがとう」
 遠ざかって行く背中を見送って、男は向きなおった。
「初めまして、僕はジュゼル。あなたと同室のハクを探しています」


 オルハイノの予想通り、ジュゼルはハクを探して楽芸館までやってきていた。場所を移してジュゼルから聞いた話はこうだった。

 昨夜もハクはジュゼルの部屋にやってくる約束だったが、約束の時間を過ぎてもハクは部屋を訪れなかった。心配になって宿舎からジュゼルの部屋までの道のりを辿ったがハクの姿はなかった。今日になって、約束を反故にしてしまったことを謝りに来るのではないかと思い待っていたが、昼休みを過ぎても現れないので心配になって自分から楽芸館へやってきたのだ。

「昨日は確かに僕のところへ行くと言って部屋を出たんだね?」
「はい、遅れそうだと慌てていました。部屋に戻ってきた様子もありません」
 いつも先に寝てしまうオルハイノは今朝になるまでハクが帰っていないのを知らなかった。隣のベッドには寝た形跡がなかったので、ジュゼルの部屋で泊まったのかと思っていた。一昨日も外泊したハクだったので取り立てて心配はしなかったのだが、楽芸館へ行く時間になっても帰ってこないのはさすがにおかしいと思った。時間がきたので楽芸館へやってきたが、いつまでたっても顔を出さないハクに次第に焦燥感が募っていった。
「君は楽芸館や宿舎を探してくれないか。僕は他の建物を探すよ」
 黙って頷き返した。
「誰かに攫われた、とかじゃ…ないといいけど」
 はっとしてジュゼルを見た。険しい顔をして、ハクの身を案じているのがよくわかる。

 つい一週間ほど前、今日から同室だと連れられて来たのは毛色の変わった小さな子供だった。しかし、それはオルハイノの勘違いだった。子供のような小さく華奢な体だが、歳は十四だという。話してみると年齢を裏付けるように、自立した考えを持つしっかりとした大人だった。繊細でどこか儚い雰囲気の顔立ちとは全く逆の、気が強くて好奇心を抑えられない子供のようで、人付き合いが苦手なオルハイノもいつの間にか打ち解けていた。
 ハクはとことん自分に無頓着で、風呂に一緒に入りたいといわれた時には咄嗟に声が出なかった。オルハイノは熱い風呂と水風呂を交互に入って体を解すのだが、まだその入り方を経験したことのないハクはやってみたかったらしい。一度だけ、風呂に入ってきたハクを遠くから見る機会があったが、周りの視線が集中していた。
 歌や踊りの名手が集まる楽芸館にはエヌオット出身者だけではなく、様々な国、人種が在籍している。しかし、そのなかでも黒い髪に白い肌をしたハクの容姿は異質だった。風呂場という素肌をさらす空間で、その違いはとりわけ際立っていた。本人はそんな視線を気にした様子もなくごく自然に身体を洗っていたがその姿は、目にしてはいけないもの、のようで集まっていた周囲の視線もたちまち消えた。

 何もなければいいが……。

 ジュゼルと別れて楽芸館を探し始めた。

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