ハクの見る空 14


 午後からは外で練習するわけにもいかず、自由時間となった。風呂に入るというオルハイノに一緒に行こうか悩んでいると、衣装所へ行くよう言われた。
 体が小さい上に、俺の踊りは動きが激しくいつもの布地の多い服ではやりにくい。他に服の持ち合わせもないので衣装を作ってもらうために採寸してもらった。自分の要望を伝えて、細かいデザインは専門職に任せた。仕上がり次第、楽芸館に届けてくれることになった。

 頭を焼かれないように日陰を選んで歩いていた。宿舎までの道のりは遠い。
「さあ、帰って何しようかな」
 城で暮らし始めて一週間ほど経った。昼間に自由な時間ができたのは初めてだ。
 オルハイノのように風呂に入るのもいい。エヌオットの風呂は温めて冷ましてを時間をかけて繰り返すが、俺は一度も体験していない。風呂は好きだけど長風呂は苦手だ。でも、温まった体で冷たいプールを泳ぐのは気持ち良さそうだ。時間がかからなかったから、オルハイノはまだ風呂にいるかもしれない。
 今日こそ入ってみようかな。明日もどうせ休みだし、日は高い。昼間っから長風呂とは贅沢だあ。
 衣装所は楽芸館より城の中心に近い場所に建っている。王宮の周りには更に城壁があって、その中で国王や重臣たちが政務を行っている。建物の間からすっかり王宮の目印になった三つの尖がりが見えた。
 バンディは今あそこで仕事をしているんだろうな。
 城に来てから一度も会っていない。街で暮らしている頃は二日と開けず顔を出してくれただけに、恋しさが募る。

 会いたい。
「はあぁ」
 あらためて思うと胸にずしんとくるものがある。体に蓄積された重たい空気をため息で吐き出した。
 話したり触れたりできなくてもいい。遠くから少し見るだけでいい。ここにいるんだって実感したい。俺は一人じゃない、近くにちゃんとバンディがいてくれるって証拠が欲しい。
 最近自分の思考が、段々女々しくなっていく気がする。
 バンディはずっと傍にいるって誓ってくれたんだ。会いにきてくれるまで信じて待つしかない。
『よし!』
 握り拳をつくって気合を入れた。

 建物の影を抜けると、腕が掴まれ引っ張られた。よろめいたところを背後から羽交い絞めにされる。声を上げる間もなく口を塞がれた。唸りながら口を塞いでいる腕を叩いた。

「ハク」

 身動きばかりか、呼吸まで止まった。
 囁いた唇から熱い呼気が漏れ、俺の耳たぶを掠めた。
 この声。
 他の誰よりも、この声で名前を呼んで欲しかった。
 腕は簡単に外れた。体を捩って見上げると、待ち望んでいた顔がそこにあった。
「バンディ」
 隣にいても聞こえないくらい、掠れた小さな声。返事の代わりに正面から抱きしめられる。自分からも背中に手をあててぴったりくっついた。体全体でバンディの温もりを味わう。顔を押し付けたバンディの胸から力強い鼓動が伝わる。

―――トクン トクン トクン トクン―――

 二つの鼓動がシンクロする。
 俺は鼻が潰れるくらい強く押し付けた。回した腕にも力がこもる。
「寂しかったか? すぐ会いに来れなくてすまなかったな」
 首を振った。震えた声が出そうで、返事ができなかった。
「毎夜、お前のいる宿舎のほうを眺めて、どうやって呼び出そうかと悩んでいたんだ。お前が街にいた時は人目も憚らずに会えたのにな………。手の届く場所にいるのに会えないというのは、なんとももどかしいものだ」

「ん? どうした?」
 低く響く甘美な音色。体の奥に痺れが走る。

 バンディの胸を押して体を離した。顔を背けて足元に視線を落とした。
「急にどうしたんだ?」
 両手で耳を押さえて膝を折った。目を瞑って何も見ないようにする。
 うわあああぁん! それ以上いうなよぉ、恥ずかしい。バンディのやつ、なんつう声出してんだよ。どっからそんな声出るんだよ。
「ハク、どこか痛むのか?」
 近付く気配がして、そっと視線を上げた。覆いかぶさるように屈んでくる。
 バンディに会った途端、周りに漂う空気がガラリと変わった。むせ返るような甘い香りに呼吸が速くなる。
 俺たちこんな声で呼び合う仲なんだ。
 あらためて実感してしまった、バンディと俺は恋人なんだって。

 目が合うと「どうした?」と首を傾けた。俺は一瞬余所見をしてから「処理能力を超えただけ」とぶっきらぼうに答えた。まだ何か言いた気な視線を向けてくる。
「早く会いに来いよな。あんまり長いこと会わなかったら、あんたの顔忘れるぞ」
 頬を膨らませて文句を言った。
「それは困るな」
 座り込んだバンディの膝に引っ張り上げられた。黄金色の瞳を食い入るように見つめた。まぶたが瞳を隠し、唇にバンディの息を感じた。瞬きもできなかった。一つも見逃したくない。唇を散々楽しんで、するっと熱い舌が滑り込んできた時ようやく俺は目を閉じて身を委ねた。腰に腕がまわり、俺も自然と首に腕を巻きつけた。
 お互いを味わって、舌を絡めると口の端から唾液が溢れた。肌を伝うのをバンディの舌が舐めとる。
「次は忘れられないうちに会おう」
 唇の上で囁かれた。五センチも離れていない。ちょっと動けば触れてしまう。
 バンディの肩に額をのせた。

「お前とずっと抱き合っていたいが、仕事を抜けてきたんだ。すぐに戻らなければいけない」
「そんなことして、仕事首になんねぇのかよ」
 本心からの心配とわずかな皮肉を込めていったのに、バンディは笑いを漏らした。
「大丈夫だ。……続きは今夜にしよう」
「今夜?」
 穏やかな笑みが間近にあった。
「明日休みだろう? 今夜迎えに来るから、森の屋敷で一日過ごそう」
「いいの? バンディ仕事は?」
「俺も休みをもらってある」
「ホント?! すっげぇ嬉しい」
 もう一度、ぎゅっとバンディの首に抱きついた。
「こうして抱き合うだけでは済まないが、……かまわないな?」




 エヌオットの言葉は四十九の文字から成り立っている。平仮名より少し多く、アルファベットより大分多い。つまり覚えるのが大変。
 それにこの文字はほとんどが曲線で形成されるので、バランスがとりにくいし形を覚えるのも一苦労だ。難しそうだと思っていたが、ここまでとは思わなかった。自分が書いたよくわからない図形を見てため息をついた。
「そんなに落ち込むことはないよ。始めたばかりなんだから、まだまだ先は長い。ゆっくり覚えていこう」
 俺はかくんと首を折った。

 俺は昨夜も来ていた部屋の書斎で、大きな机と向き合って座っていた。隣に立つジュゼルが昨日の続きを教えてくれる。
 バンディに誘われたので、今夜は行けないとジュゼルの部屋まで伝えに来たつもりが、俺が休みで暇してるとわかると書斎に押し込まれ勉強が始まった。

 もう一時間くらい経っただろうか。集中力の切れはじめた俺に、ジュゼルは休憩を入れてくれた。ソファーに座って、出されたカップに口をつける。ジュゼルも隣に座ってお茶を飲んでいた。
「ジュゼルはピサリの街に住んでるんだろ?」
「うん。今は仕事でここに住んでるけど、いつもはね。大抵の王族はここに住んでるんだ。街にもそれぞれの屋敷があるんだけど、仕事で城に来なきゃいけないし、近いほうが行き来する手間が省けるから」
「ジュゼルはどうして住まないの?」
「こんなところに住んでたら、息が詰まるよ」
「でも、俺たちと違って好きなときに街へ下りられるだろう? 息抜きできるじゃないか」
 そうなんだけどね、と呟いてカップに視線を落とした。
「………王族っていう枠にはめられるのが嫌…なのかな」
 そう言って、薄い笑みを浮かべた。
「嫌なのか?」
「まあね。王族っていうだけで国から仕事をもらえて生活も保障されているし、何不自由なく暮らしていけるんだけど……。反対に自分の力で何もかも手に入れたいのかも。一から全部自分の力だけで身を立てて、自分を試したいのかもしれないな」
 遠くを見るような目は憧れというより悲愴感がにじんでいた。
「……自分の力だけっていうのは難しいと思うよ。生きていくのってホント、難しい…。俺もこの四ヵ月間大変だった」
「ハクは自分の力だけでここにいるんだよね。苦労してきたんだろう。……軽率かもしれないけど、羨ましいよ」
 俺は笑って首を振った。
「ジュゼル、違うよ。俺、自分の力だけでこの世界で生きてきたわけじゃない。俺はいっつも誰かに助けられてた。拾ってくれたウルヌスに命助けてもらったし、劇団のみんなに仕事教えてもらったし、飯だって作ってもらってたし。俺一人だったら、とっくに野垂れ死にしてたよ」
 贅沢な悩みだと思った。でもジュゼルの気持ちもわかる。きっと一般人の俺からは想像もつかない、しがらみや煩わしいこともあるんだろう。不自由のない暮らしは、ジュゼルに本当の自由をもたらしてはくれない。やるせない表情をするジュゼルを、軽くはあしらえなかった。
「今もジュゼルにいっぱい助けてもらってる、だろ?」
 問いかけると、晴れやかに笑った。




「どうぞ」
 扉を開けてギルビスが入ってきた。机まで大股で歩み寄るとラウルが眺めていた書類を覗き込んだ。
「終わったか?」
「ええ、可能性がありそうなものには城に来るよう書簡を出しました」
「相変わらず仕事がはやいねぇ」
 机に腰掛け、恨みがましい深碧色の目でラウルを見る。
「…候補者の選り分けで昨日はほとんど寝てないんだぞ」
「ですから、ギルビスの努力を無駄にすることなく、私も精一杯働いて相手方への連絡を済ませられました」
「人使いの荒さはどうにかしてもらいたいもんだ。執政官になったら、優しい俺に人気が集中しそうだな」
 ラウルがのどの奥で笑った。
「厳しさと優しさ。その二つが備わっていてこそ、人望も増すんですよ?」

「一週間と待たずに巫候補と会えますよ」
「俺たちが会うのか?」
 見下ろしていた書類から顔をあげ頷いた。
「俺たちが会う意味はあるのか? 巫かどうかはハーウェルにしかわからないんだろう?」
「小さくて美しい、という条件は誰が見ても判別できます。そのうえハーウェル好み、という条件が加われば私たち以上の適任者は他にいないでしょう?」
 それに、と呟いて続ける。
「ハーウェルは巫が見つかっても后にしない。私たちがやっている巫探しも中止しろと言いわたされました」
「じゃあ何でこんなことやってんだよ。もし本物見つけても、ハーウェルにその気がなけりゃあ巫の居場所がない」
「居場所などなくとも、いてもらわなければ困りますよ。巫は側室として迎えます。そして恋人のハクを偽りの巫に仕立て上げます」
「ラウル! ……そんなこと、出来るのか?」
 声を荒げるギルビスにラウルは微笑んだ。国全体を騙す計画を企てているとは微塵も感じさせない、陰りのない笑みだ。

「王妃は当然、王であるハーウェルの愛する人、が一番ふさわしい。でも国のためには巫も必要です。ハーウェルの安慰を求めるか、国の安泰を求めるか。両方欲しいなら…………、二人とも、巫も王妃も手に入れればいい。答えは簡単でしょう」
「だが、……王と巫は契りによって絆を深めると言っていなかったか?」
「三人に目を瞑っていただくしかありませんね」
「上手く…いくのか?」
 揺れる瞳をラウルがしっかりと受けとめる。
「いかせますよ。巫にはご自身が巫であることを明かしません。ハクには自分が巫であると信じ込ませます。真実を知るのは私と君とハーウェルの三人だけです。巫とあれば各議会にも出席していただかなければなりませんが、側室では無理ですから私たち三人と巫で議会にのぼった議題について話し合いましょう。意見があればハーウェルが代わって議会で発言すればいい。これなら側室の身分でも巫として国政に参与できます」

「巫も……そのハクも、騙すのか?」
「不安因子を最小にとどめるのが成功への鍵です」
 ラウルは見つめてくる深碧の瞳をじっと見返す。
「賛同できませんか?」
「……お前がいけるって言うなら、そうなんだろうな…。でもハクが巫って可能性は?」
「残念ながら…」
 しばらく視線を漂わせ、自分に言い聞かせるように呟いた。
「ハーウェルには伝えたのか?」
「いいえ。ハーウェルから巫は必要ないと聞かされたのが、一時間くらい前だったかな。その後急いで部屋を出ていったからね。説明するのは……明後日だね」
 間を置いたラウルに、眉を寄せる。
「明日話せばいいだろ?」
「ハーウェルは、…明日は休みなんだ」
 何か含んだ笑みで窓の外を見やった。月明かりに青白く照らされた城壁と王宮が闇夜にぼんやり浮かびあがっている。

「……お前、よく休みをやったな」
「ん〜…ちょっとね、猶予をあげようと思って………。明日の夜……。いや、もしかすると明後日の朝にならないと帰ってこないかもしれないね」
「どこ行ったんだよ」
 眉をひそめるギルビスに、ラウルはニヤニヤ笑った。
「楽芸人の宿舎……いや、人目があるから別の場所で会っているだろうね」
 ギルビスはまだ合点がいかない顔をしている。
「ハクだよ。ハーウェルの恋人は、楽芸部で芸人をしている」
「…なんで知ってるんだよ」
「当然、調べたから」
 満面の笑みで答える。
「おっまえっ………。まさか、もう調査したのか?! ハーウェルから聞かされて、まだ三日しか経ってないぞ」
「今日のお昼に、ちょっとね。とても素直でいい子だったよ。明るくて純粋そうで」
「しゃべったのかああ?!」
 ギルビスが額に手を当てて叫んだ。
「ハーウェルがいった通り見た目はまるっきり子供だから、実際目にした時本人に間違いないのか悩んだよ。でも話してみると成人してるだけあってしっかりしているし、何よりハーウェルをよく理解している。……妄想癖のある変態だと話してたよ」
 観察力がある、と自分で言ってくっくっくと笑い出した。腹を抱えて時おり手を顔にやっているので、涙まで流しているようだ。
 笑って気が済んだのか、ラウルは姿勢を正した。
「違う世界の人間というのは、強ち嘘ではないのかもしれない。彼は巫様を知らなかったよ」
 実はハクと昼食を共にしたとき、当たり障りのない会話をしながら、信仰する宗教についても聞き及んでいた。しかしハクは無宗教だと答え、その上巫さえ知らないと言ったのだ。
 この世界で巫を知らない人間などいないと断言できるほど、人々にとって巫はなくてはならない存在なのだ。
 初代国王エルバルトゥスの時代に書かれたエヌオットの伝書には、巫の導きによってエヌオットが更なる繁栄を迎えると記されてある。しかし巫はエヌオットだけの神に留まらず、他国では国を創ったと伝えられている。エヌオットのような巫の存在を記した伝書があるかどうかは定かではないが、巫という神を崇める信奉を国教と定めている国も多い。
 エヌオットも巫を国教とし城の敷地内には神殿もあるが、国民は神というより英雄のような認識だ。危機に陥ると巫様が現れ助けてくれるというおとぎ話を、幼い頃から何度も聞いている。

 ギルビスは、もはや感心を通り越して呆れていた。
「お前はホンットに、仕事がはやいよ」

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