ハクの見る空 13


「本当に行くのか?」
 ベッドでハクに教わった柔軟運動をしていたオルハイノは遠ざかる小さな背中に声を掛けた。
「行くよ。昨日ジュゼルと約束したんだ」
「こんな夜中に仕事の手伝いって、具体的には何をするんだ?」
 夜着を着込んだオルハイノと違い、ハクは日中着ていた普段着のままだ。オルハイノの足元を通り過ぎドアノブに手を掛ける。
「聞いてないから知らない。できるだけ静かに帰ってくるから、おやすみ」

 今は個人の時間で城の敷地内を出ないかぎり何をしていてもいいのだが、どことなく後ろめたい気がする。背徳感がある、とでもいうのか。悪いことをしている気になる。俺の体を包む暗闇のせいかもしれない。家族が寝静まった真夜中に家を脱け出した、とかそんな感じ。
 外灯なんかないので日が沈めば真っ暗になるのだが、空を見上げれば無数の星の光に埋めつくされていて夜に出歩くのも支障はない。頬を撫でる風はすっかり昼間の暑さを忘れて、体温を奪っていく。
 毎晩ベッドに入るのが早いのであまり見る機会はないが、この世界の夜空は俺の知っているのと違う。星の数が多い。電気のない世界だから小さな星の輝きも消えることなく地上まで届くんだ。しかしそれだけじゃない。この空に俺の知っている星はない。

 この世界に来て最初の頃、もしかして俺は、数百年以上昔のヨーロッパ辺りにタイムスリップしているのではないかと考えていた。タイムスリップなんて非現実的だけど、今ここにいる自分以上に非現実的なものはない。
 ウルヌスたちに拾われるまでの数日、昼とは違い冷え込んで眠れない夜を、空を見て過ごした。星座は大昔に作られたギリシャ神話がもとになっている。だからどんなに大昔でも、俺の知っている星があるはずだった。夏の今なら彦星のアルタイル、さそり座の赤いアンタレスが目立つのにこの空にはどれも見当たらなかった。一番わかりやすいシリウス、赤と青のペテルギウスとリゲルもない。
 ここは地球ではない、信じられないが地球によく似た別世界だと結論付けた。

「ハク」
 突然、闇の中から俺の名前を呼ぶ声がした。空を仰いで考え事をしていたので、心臓がぎゅっと縮む程驚いた。胸に手を置いて喘いでいると、人影が近付いてもう一度「ハク」と呼んだ。
「……ジュゼル?」
 当たり、と愉快そうに答えた。

 ジュゼルが仕事に使っている部屋は宿舎の相部屋の数倍広かった。居間と書斎に寝室、バスルームにトイレと、ホテルのような部屋だ。書斎で仕事していたようだが、まずお茶でもと勧められ居間のソファーに座っていた。初めての部屋にきょろきょろしていると、かしゃんと食器がぶつかる音がした。テーブルに置かれたティーカップから湯気がたっている。
「珍しい?」
「え、うん。俺、楽芸館と宿舎にいるだろ。あとは選考会の時の大広間と、宴の広間くらいしか知らないから。お城にはこういう部屋もあるんだな。なんかホテルみたいだ」
「そうだよ。ここは王族や来賓者が泊まれる館なんだ。実際住んでいる王族たちもいるよ」
 だから生活できるように調えられてるのか。

「手伝ってもらう前にさ、ハクの話を聞かせて。この前は僕が一方的にしゃべってたからね。僕もハクのこと知りたい」
 ジュゼルはすっと自分の分のティーカップを寄せると、俺の隣に座った。
 この世界で目を覚まして、城にやってくるまでの話をジュゼルに語った。今までの暮らしは長く感じたが、話してみるとあっという間だ。

 黙って聞いていたジュゼルが口を開いた。
「ハクは違う世界から来たの?」
「うん。信じられないと思うけど、ほんとだよ。なんでだか気づいたらエヌオットで、どうやってきたのか、どうやったら帰れるのか、さっぱり」
 肩を竦めておどけてみせた。ジュゼルはなぜか眉を寄せて辛そうな顔をした。肩を引き寄せられ後頭部に手が添えられる。ゆっくりとした動きで髪の毛を撫でる。
 ジュゼル…、慰めてくれるのか。
 しばらく撫でられるまま、肩に頭をもたせかけていた。
「ハクってすごいね。……何もなかったんだろう? それなのに仕事を見つけて、住まいを見つけて、ご飯も食べれるようになって、友だちもできて…。今は城に芸人として勤めてる。尊敬するよ」
 感嘆の声に体がぞわぞわして居心地が悪い。慌てて身を離した。
「俺、全然偉くないよ。ジュゼル、信じてくれるのか?」
「もちろん。だってハクが僕に嘘をつく理由がないよ。それに、ハクはもう僕に嘘つかないだろ?」
 俺は威勢良く「うん」と大きく頷いた。

「約束だよ?」
 ジュゼルの言葉に思いついて、俺は右手の小指を立てた。ジュゼルの手も同じように小指を立てて、指きりをした。繋いだ小指をぶんぶん振ってると、ジュゼルは不思議そうな顔をする。
「これは指きりって言って、約束を絶対守りますって誓いを立てるんだ」
 照れ臭くなってえへへと笑うと、ジュゼルも綺麗な顔で柔らかく笑った。ちゅっと音を立てて頬に触れた。
 えっ、なになになに? 今の…キッキス?!

「返事は、あとでいいよ。…もっと話していたいけど、ここに来てもらった本来の目的に移ろうか。ハクには僕の手伝いで来てもらってるんだからね」
 俺は呆気にとられ、頬を押さえて固まっていた。自分からやっておいて、ジュゼルは顔をそらして俺の反応を無視している。
「ああ、えっと…。何をすればいい?」
「もうすぐ建国祭と同時に行われる即位祝賀会が迫ってるから忙しいんだ。たくさんの王族や貴族たちも用意を手伝っている」
「そんなのがあるのか?」
「知らなかった? 楽芸館でも建国祭に向けて練習に力が入ってるだろう?」
「俺は入ったばっかだから、いつもあんな感じかと思ってた」
「今度の建国祭は戴冠式も行われる。エヌオットを始め国外からも、国王や王族などが招かれるからね。そこで演奏演舞できる芸人や楽人たちは、これ以上にない程名誉なことなんだよ。ハクは入ったばかりだから出られないだろうけどね」
 建国祭と戴冠式かぁ…現実感湧かないな。
「建国祭にはたくさんの人々が集まるんだ。だから揃えなければならないものも多い。食事に関するものから警備や給仕の人員も必要だ。僕は各管轄から上がってきた発注書と来賓の人数とを照らし合わせて過不足がないか調べている。ハクにはそれを手伝って欲しいんだ」

「まずいよ、ジュゼル。俺……字読めない」
 首をかくんと折って呟いた。
 せっかくジュゼルのために何かできると思っていたのに、字が読めないばっかりに手助けできないなんて情けない。
「ああ、そうか。ハクはここへ来て日が浅いんだよね。まだ読み書きは覚えてないんだね」
 俯いたまま頷いた。ジュゼルが「それなら」と続けたので顔をあげて窺う。
「僕が読み書きを教えてあげるよ」




 水色一色で雲ひとつない空。あるのは燦々と照りつける太陽だけだ。エヌオットはあまり雨が降らない。その割りに水は豊富なようだから、雨期があるのかもしれない。
 俺は少し苦しくなってきたブリッジの体勢から起き上がった。木陰で休む人たちの中にオルハイノの姿を見つけた。

「空の下で練習するのって気持ちいいな。他の連中もみんな来ればよかったのに」
 隣の芝生に腰を下ろした。ずっと練習していたのか、こめかみに滲んだ汗が滴になってつっと顎に流れた。手の甲で乱暴に拭く。
「室内でしか演舞できない人たちもいるからな。確かに気持ちはいいが、日陰がなくなってきて暑い。この分では午後からも外でやるのは無理だな」
 今朝、楽芸館は館内一斉清掃のため使えないと聞き、俺たちは外での練習となった。といっても、今練習しているのは半数くらいで、あとはみんな思い思いに過ごしている。
「快適なのは朝のうちだけだな。あぁ、喉渇いた」
「もうすぐ昼だ。我慢しろ」
 俺はあまり汗を掻いていないけど、オルハイノは汗を掻いたぶん俺以上に喉が渇いてるはずだ。でも、意地なのか生まれつきなのか、暑さなど感じさせない涼しげな顔をしている。

「どうしてもっと近くで練習しないかな? 宿舎に食べに帰るのだって一苦労だよ」
「練習しているところを高貴な方々に見せられないからな。こんな奥まった場所しか使用許可が下りなかったんだろ」
 ここは城壁近くに建っている楽芸館から、城壁に沿って二十分くらい歩いた場所だ。二階建ての建物があるだけで他には林と草原しかない。
「お前、毎晩遅いようだけど体は大丈夫なのか?」
「平気、平気。遅いっていっても、一時間ぐらい勉強してちょっと話して帰るだけだから。宿舎の部屋出て二時間後にはベッドの中だよ」
 脚を交差させて上体を捻りながら答えた。腰からこきっと音がする。捻った場所がのびて気持ちいい。
「そうか。でも、毎日通うのは多すぎるぞ。せめて二日に一度にすればどうだ。ジュゼル様も毎晩お前に来られては迷惑だろう」
「え、うん…。俺も思ったんだけどさ、ジュゼルが毎日来いって言うんだ。それにジュゼルとおしゃべりするのも楽しいし、もちろん字を速く覚えたいってのもあるんだけどな」
 今度は上にくる脚を替える。
「根を詰めると練習にひびくぞ」
 本当にいいやつだなと思って、にこにこ顔で「うん」と返事をした。上体を捻ると、オルハイノ越しにこっちを見ている人が何人かいた。すぐに目をそらされたが一人だけがまだ俺を見ていた。愛想笑いで軽く会釈すると、するっと視線をかわされた。

「お茶をお持ちしました」
 建物の影からワゴンを押す給仕がやってきた。その上にはたくさんのグラスが載っている。
「皆さま暑そうでしたので」
 木陰で休んでいた俺たちにお茶を勧めてくれた。茶色い液体の入ったグラスは表面に水滴をつけていて冷たそうだ。
「わーい、神様だ」
 俺は飛び起きてお茶を貰いに駆け寄った。給仕の周りには練習していた芸人たちも寄ってきて、人だかりができ始めている。隙間を縫ってトレイからグラスを二つ取った。
「ありがとう」
 給仕の顔は半分が長い髪に隠れていて目が見えなかった。
「ハク。お前は見た目通り、子供だな」
 後ろに来ていたオルハイノにグラスを一つ差し出した。
「うるさい。喉が渇いたって言っただろ。取ってきてやったのに」
 口を尖がらせた俺に、薄っすらと口元を緩めている。

 城での生活が始まって一週間しか経っていないが、同室のオルハイノとはとても上手くいっている。表情が乏しくて今ひとつ掴みにくいやつだと思っていたけど、よく見ればちゃんと笑っているし人の心配までしてくれるいいやつだ。俺がジュゼルのところへ毎晩通っているのを心配してくれていた。字を教わっていると言うと納得したようだった。あまりしゃべらないと思っていたが、俺の話をしっかり聞いてから言葉を選んで返してくる。今では風呂上りに宿舎の部屋で二人揃って柔軟しながら色んな話をするのが日課になっている。たった三つしか歳が違わないのにとても落ち着いている。十三歳で成人するエヌオット人だからかもしれないが、この一週間で芸人としての同士であり、何でも話せる友人であり、頼れる兄のような存在になっていた。

 グラスを返しにいくと給仕はポットを持っておかわりを注いでまわっていた。ご馳走さま、とグラスを戻そうとするとお茶を勧められた。
「じゃあ少し」
 グラスを持った手を上げるとポットが傾けられた。グラスとポットがかち合う音がした。
「うわっ!」
 ぶつかった拍子に注ぎ口がずれて、俺の服にお茶がかかった。白い布が薄い茶色に染まっていく。給仕は大慌てで大きな体を折り曲げ、水分を布きんに吸い取らせていた。
「申し訳ありません。服が濡れてしまいましたね。すぐに替えをご用意しますので私についてきてください」
「ぼうっとしてた俺が悪いんだ。こんなのすぐ乾くから心配しないで」
「いいえ、楽芸館までは遠いでしょう。城内をそのような身なりで歩き回ってはいけません」
 胸の前に突き出して断っていた俺の手を、給仕はしっかりと掴んだ。


「本当に返さなくていいの?」
 着ている服を摘まんで聞いた。薄い藤色に染まった布はさっきまで着ていた物と違って肌触りがよく軽い。
 絶対、高級品…だよな?
「偉い人の服なんじゃないの? 俺なんかが着ていいのかなぁ」
 給仕は食器を並べながら、いいんですと笑って言った。テーブルにはパンや肉料理が並んでいる。

 給仕に連れられてきたのは、ジュゼルが使っていたホテルみたいな部屋だった。脱衣室に新しい服と一緒に押し込められ、着替えると昼食を食べていくよう誘われた。断ろうと思ったが、部屋には料理のいい香りがしていて言い出せなくなった。

 テーブルの反対側にも、もう一人分が用意してある。
「ご一緒してもよろしいですか?」
「もちろん! 二人で食べたいなと思ってたんだ」

 食事をしながら俺が城にやってくるまでの話をした。別の世界から来たことは黙っておくことにした。気づいたら知らない土地にいてそれまでの記憶が一切なかったって話したら、納得していないようだったけどそれ以上は突っ込まれなかった。
「ご不安でしたでしょう」
 お茶を啜っている給仕の皿には何も残っていなかった。しゃべっていたのもあって、俺の皿にはほとんど手をつけていない料理がのっている。
「そうでもないよ。俺、みんなには将来絶対にまた会うつもりだし、ここでも友だちができたからね」
「なんの躊躇いもなく決められたのですか?」
「まさか、決めてからもめちゃくちゃ悩んだよ」

「俺、ここに来るには全部捨てなきゃいけないと思ってたんだ。やっと手に入れた居場所も、大切な人も、何もかも。すごく不安で、お城へ行く日が迫ってくるのが怖かった。でも…」
 揺らめく炎を映した、黄金色に輝く二つの瞳を思い出す。ロウソクに小さな炎が灯ったみたいに胸の辺りがじんわり暖かい。そこをきゅっと掴んだ。
「ある人のお蔭で自分が一人じゃないって気づいたんだ。今しか考えてないんだって。別に、ここに来たからって大切なものを失うわけじゃなかったんだ。長い目で見れば、しばらくの間離れるだけで戻ってこられるのにね。わかった時に不安は全部消えたよ。ちょっといってきますって気持ちでここに来たんだ」
 少し言い過ぎたかと思ったので「気軽過ぎるよね」と自嘲的に笑った。

「強い方ですね。………ある人、というのはもしかすると…恋人ではありませんか?」
「え、いや…あのっ」
 俺はどもりながらも結局は認めてしまった。金髪の間からちらっと見えた淡碧の瞳に射抜かれて誤魔化せなかった。
「どのような方ですか? あなたのお相手は」
「どんなって………、うー…かっこよくて、かわいくて、素直で頼り甲斐があって。思い込みが激しくって自分勝手で強引。あとちょっと変わった人、かな」
「変わった……どんな風に?」
「んんん……。妄想癖があるっぽいんだ。しかも俺が受ける被害妄想。たぶん、この身長のせいだと思うんだけど、俺が女の子に見えるらしくて。他の男に言い寄られないかって心配してるんだぜ? いくらチビでも、れっきとした男だし変に勘繰るんだよな、あいつ。キレると暴走してわけわかんなくなるみたいだし」

 散々話してから、俺は前に座る給仕の様子に気がついた。俯き加減で余計に表情がわからないが、唯一見える唇は引き結ばれている。
「ごめんなさい。俺、暴走したみたいで…。は、恥ずかしいぃ」
 初対面の相手にバンディの話して………。これじゃあ、まるで付き合い始めたバカップルじゃないかあああぁ! 絶対惚気に聞こえたよな。呆れたに決まってる。……引かれてるよぉ。
「よかった」
「え?」
「心残りを持って城に勤める芸人はたくさんいるでしょう。でも少なくともあなたは違う。気持ちの整理をちゃんとつけていらっしゃる。そのステキな恋人のお蔭ですね」
 ステキな恋人という言葉に顔が熱くなる。見られたくなくて、下を向いてティーカップを口に寄せた。
 他人に恋人を褒められるのがこんなに恥ずかしいとは思わなかった。恋人ができたのも、他人にバンディの話をしたのも初めてだったので知らなかった。

「…守られているだけでいいのかな。………お互いのためになるのかな」
 微かな音が耳に届いて、口が動いているのがわかった。でも何を言っているのかはっきりしない。
「え? 何?」
「あまり召し上がっていませんが、お口に合いませんでしたか?」
「ああ、違うよ。体調を崩してから食欲がまだ戻らないんだ」
 上手くはぐらかされたように感じたが、聞き返さなかった。

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