ハクの見る空 12


 長い廊下で冷やされた風が俺の黒髪を揺らした。太い柱の陰に身を潜めていた。視線の先には定例会が行われている大広間の出入り口。あまり近付くと扉の左右にいる警備の者に見つかってしまうので、大広間から出て少し離れた廊下の角に隠れている。曲がった先にはトイレがあるから、きっと途中でトイレに行くためここを通るだろうと考えたんだ。午前中から行われていた会議は昼食で今は中断されている。俺は昼食後の休憩時間をつかって王宮に来ていた。
 定例会は通常夕方には終わって、慰労をこめた晩餐会が開かれる。晩餐会は長時間開かれるので夕飯の後の自由時間に捜そうと計画していたのだが、オルハイノが紹介してくれた、ジュゼルのファンみたいな人の話を聞いて時間を早めた。話によると、ジュゼルは仕事である定例会での報告が終わると帰ってしまうことが多いのだ。晩餐会に出たとしても、俺たちの体が空く時間には帰ってしまう。だから無理をして楽芸館を抜け出してきたんだ。

 さっきから人の出入りはあるが、ほとんどが給仕で王族らしき人たちはあまり見ない。今日を逃せば来月の定例会まで、いつジュゼルが城にやってくるかわからない。
 何としても探し出さないと。

 出入り口に人が現れた。すぐこちらに背を向けて、俺がいるのとは反対の廊下を歩いていく。一瞬しか見えなかったが、髪形がジュゼルに似ている。人影は遠ざかっていく。俺は後を追うためにトイレがある方に進んで、その手前にある扉から庭に下りた。急いでジュゼルに似た人物が歩いていった方向へ、壁に沿って走り出す。しばらく芝生を走ると追いついたようで開け放たれた窓から足音が聞こえた。高い位置にある窓にぴょんぴょん跳びついて中を窺った。
 やっぱりジュゼルだ。
 早くしないとどこかに行ってしまう、と思って慌てて声をかけた。
「ジュゼル」
 廊下は響くので大きな音はたてられない。他の誰かに聞かれないようジュゼルにだけ届くくらいの小さな声。ジュゼルはふと近くにあった窓を見た。もう一度名前を呼ぶ。ジュゼルは立ち止まってきょろきょろ辺りを見回している。俺はしがみついていた窓枠から手を放し、中から見えるように背伸びして手を振ってまた名前を呼んだ。
 足音が近付いてくる。どきどきしながら窓を見上げていると、ジュゼルの顔がひょこっと現れた。
「ジュゼル!」

 呼ばれてから俺の存在に気づいたようで、俺をみとめるとグレーの瞳が落ちそうなくらい目を見張っていた。
「…ハク? ハクだよね?」
「そうだよ。ジュゼルに会いにきたんだ。ジュゼルが出てこないかと思って、ずっと隠れて見てたんだ」
 ジュゼルは徐に窓枠に手をつくと、軽やかに飛び越えて庭におり立った。相変わらず王子様なやつだ。俺の手首を掴むと急ぎ足で庭の奥へ向かった。
「え、ジュゼル待ってよ。……俺、ジュゼルに謝らなきゃ」
「話はあとで。誰もいないところへ行こう」
 有無を言わさないしゃべり方で、俺は黙って従った。ジュゼルが怒るのは当然だ。


 やってきたのは木に囲まれたベンチで、バラのようなツタ植物が生い茂って屋根を作っていた。真昼の強い日差しを柔らかな木漏れ日に変えている。木が目隠しになっていて、誰か座っていても気づかれる心配はない。深い緑のなかにぽつぽつと赤い花が鮮やかに咲いている。小さな八重咲きだ。
 俺をベンチに座らせると、自分は跪いて顔を覗き込んできた。

「本当にハクだよね? しゃべれるようだし、服装も違うし、雰囲気があの時と大分違って見えるけど……」
「うん、ごめん。ジュゼルに嘘ついてたこと謝りにきた」
 太ももの上に乗せた拳を硬く握りしめた。
「俺は宴の時、訳があってエヌオットの言葉がわからないふりをしてたんだ。ジュゼルが一生懸命伝えようとしてくれて、すごく嬉しかったし嘘をついてる自分が嫌になった。本当は通じてるんだって言いたかったけど、約束してたから…」
 俺の両手をそっと持ち上げて、甲を擦られた。
「いいんだよ。ヴェールで顔も隠していたし、きっと声をかけてくる輩から君を守るためだったんだろう」
「そ、それに俺男だし」
「そうみたいだね。かわいいから近くで見てたのに気づかなかったよ」
「いや……あと、待ってろって言われたのに勝手にいなくなってごめん」
「あの時は他のやつに連れて行かれたのかと思って焦ったけど、近くにいた人に聞いたら連れの者と出て行ったみたいだって教えてくれたよ。さよならも言わずに別れてしまったから、もう二度と会えないんじゃないかと思うと苦しかった」
 ジュゼルはそう言って、綺麗な顔を歪ませた。俺はまた「ごめん」と頭を下げた。

「で、どうしてここに居るの?」
 俺は理由を話した。審査選考会で選ばれて舞手として城に参入したこと。芸人仲間にジュゼルを知らないか聞いて、今日定例会で城へ来ると知ったこと。ジュゼルが出てこないかと、柱の陰に隠れてじっと待っていたこと。話し終えた俺は、俯いたまま聞いた。

「怒ってる、よな?」
「どうして?」
「だって俺、いっぱい嘘ついてた。ジュゼルの親切を裏切るようなことした。……俺、一緒にいてすごい楽しくて、こいつと友だちになりたいなって思ったんだ。だから城にあがったら一番に探し出して謝ろうって決めてた。でも、ジュゼルが怒るのは当たり前だし…」
「怒ってないよ」
 そう言われても、まだ頭を上げられなかった。ジュゼルの顔を見るのが怖い。
「怒ってないよ。言葉がわからなければ教えようと思ってたし、男だからってハクには違いないし、急に消えちゃったのはショックだったけどこうやって会いに来てくれたし。僕が腹を立てる理由なんてないよ」
「本当? 俺にムカつかない?」
 恐る恐る視線だけ向けると、ジュゼルは楽しそうに笑っていた。理解できなくて首を傾げていると、すっと手が伸びてきて軽く頬っぺたを抓られた。
「疑り深いなぁ。……嘘じゃないよ」
「許してくれるのか?」
「もちろん」
 抓った痕を擦られる。笑っていたジュゼルだったが、遠くを見るような目をして一瞬動きを止めた。どうしたんだろうと思っていると、すぐ笑顔に戻った。

「ねえ、ハクに手伝って欲しいことがあるんだ」
 ジュゼルの笑顔は本当に綺麗だ。




 ハーウェルの議事室にある大きな長机は、たくさんの資料で表が見えないほど散らかっていた。机を挟んで対峙しているのはギルビスとラウルで、ハーウェルは離れた椅子に腰掛けている。眉間に深い皺をよせて数枚の資料を睨んでいたギルビスが顔をあげた。
「なあ、これ見て得るもんはあるのか?」
「友好国とそれ以外とを分けてください。こんなにあるんですから、真面目にやってもらわないと困りますよ」
「いや、それはわかったけどな。ほら、これなんて俺の身長と変わらないやつだぜ? 一番わかりやすい小柄って条件さえ無視してやがる。ラウル、ちゃんと伝えたんだろうなあ?」
 ギルビスの手から紙をもぎ取った。
「長老方の前でもいいましたし、外務長官には直接頼みました。美しくて小柄な異国の方を側室に迎えたいから、領事館の者たちにも伝えてくれるようにと。それなのに…、あの年寄りはまともに聞いていなかったようだ。余計な手間を掛けさせてっ」
 紙を握りつぶして屑箱に投げ入れた。

 二人とも立ちっぱなしでこの作業を二時間は続けていた。それでも一向に減らない紙の山。資料を読んで判断する一連の流れはとても速かったのだが、資料にある側室候補の紹介文が二人を辟易させた。

「伝聞のせいだろうな」
 資料の山に悪戦苦闘している二人を放って、ずっと放心したように天井の辺りを見ていたハーウェルが久々に口を開いた。
「領事館の者たちは外務官たちから直接聞いた者もいただろうが、他の領事館や長老、王族たちから伝え聞いた者もいただろう。伝わっていくうちに内容が少し変化するのは当然だ。側室を探している、というところは一番重要だから変わらなかったが、美しいと小柄は削ぎ落とされた。書簡でも送っておけばこうはならなかったのだが、側室を探しているごときの内容ではな」
「小柄の条件に合わない者は結構いますね。ですが、美しいという条件はみなわかっているでしょう。まさか次期王の側室に醜い者を輿入れさせようとは考えません」

「それで、ハーウェル様は如何なさいましたか? 先刻から上の空のご様子ですが」
「ああ、考えていたんだ。側室…いや、巫について」
「何か思いついたことでも?」
「変装して出席した宴でギルビスが聞いたよな、俺好みのやつはいたかって。ラウルも俺好みの異国人が巫だって言ったよな」

「もしかして、いたのか? でもお前、あの時はいなかったって」
「確かにいなかったんだ。領事館関係者の中には…」
「中には、って……。じゃあ、接待役の外務官や王族…城に仕える給仕や兵士の中にはいたの?」
 ハーウェルはゆっくり首を横に振った。
「なんだよ。もったいぶってねぇで早く吐け!」

「………俺が連れてきた、恋人だ」

「えええぇ?!」
 示し合わせたように聞きなおしていた。

「俺が連れてきた。ピサリの街で働いていた子だ」
「連れてきたって…お前。子って、子供に手ぇ出したのか?」
「いや、十四だ。背が小さいし華奢だから幼く見えるがな。宴に連れてきたのは理由がある。あいつは今、城で働いているんだ。入城直前で緊張しているようだったから、どんなところか見せてやろうと思ってな」
 窓ガラスに映った暗闇を見てハクを思い出した。城に送り届けてから三日過ぎた。あれから一度もハクに会っていない。城のなかというのは人の目があって、簡単には会いに行けない。人気のない場所に呼び出せばいいのだが、文字の読めないハクでは手紙も出せない。何かいい案はないものか……。

「小柄、なんですか?」
 ラウルの声で、ハクとの逢引の方法を考えるのをやめた。
「ああ」
「異国の方なんですね?」
「そうだ」
「もちろん美人ですよね?」
「当たり前だろう」
 昔から一緒に遊んでいたギルビスとラウルは、ハーウェルの相手をずっと見てきた。ハーウェルは平凡な容姿の者には決して手を出さない。顔立ちの整った人間しか相手にしないのだ。

「その方が巫では」
 言い終わる前に口を開いた。
「それはない。あいつは特別な力を持った人間じゃない。普通の人間だ。素直で我慢強くて思いやりがあって、考え方もしっかりしていて自分を持っている。見た目と違って俺を包み込むほどの包容力もある。だが脆くて繊細な部分もある」
「なんだよ、惚気かよ」
「そうだ」
 はっきり言い切った。鋭い視線を投げつけてくるギルビスに、不敵な笑みを向ける。

「前半の条件にはぴったり合ってる…。後半はどう? 『色と欲』にあたる何かを無くしていない?」
 ハーウェルはどことはなしに視線を彷徨わせてからラウルを見た。
「俺も考えていたんだが……、思い当たらない。あいつはエヌオットにきて四ヶ月だ。無くすような物さえ持っていない」
「実際の物じゃなくていいんだ。『色と欲』は何かを示す比喩だろうから」
「人でもいいなら、家族と仲間を無くしているな。仲間とは城にあがるため別れたばかりだ。それに、あいつは違う世界の人間で帰り方はわからないと言っていたから、家族も無い」

「違う世界の人間?! お前バカか?! そんな子供でも信用しない話真に受けたのか」
 ダンっと机に振り下ろした手が派手な音をたてた。怒りを顕にしたギルビスを真剣な目で見上げる。
「本当だ。見たことのない髪と目の色をしているし、身体つきがあまりにも小さい。エヌオット人の十歳くらいの身長しかないんだ。それに、ハクは俺に嘘をついたりしない。絶対に」
「おいおい頼むぜ、殿下ぁ〜。お前そいつに騙されてるんじゃないのか?」
 頭を抱えて椅子に身を投げた。
「ギルビス!」
 鋭い目でギルビスを一喝した。
「ハクというんですか………。会わせてくれませんか? ハーウェルを信用してないわけではありませんが、私たちも心配なんです。わかってください」
「かまわない。だが、いずれな」
 一呼吸置いて続ける。
「ハクには、俺がエヌオットの王子だと言ってない。近衛だと話してある」


 ギルビスは歩きながら両手に抱えた紙束を抱えなおした。
「ハーウェルは巫の代わりに……。巫と偽ってでも后に迎え入れそうだな」
 ラウルも頷いた。その手も紙束を抱えている。
「本物が見つからなければ、それらしい偽者を据え置こうと思っていましたから、ハーウェル自身が見つけてくれて寧ろ好都合ですよ。気に入らないという文句は出ませんからね」
「本物が見つかったら?」
「后に迎えるのは無理でも側室にはできます」
「あいつが納得するかなぁ。他人をあんなに褒めるなんて初めて見たぜ。怒って俺を睨みつけた目も真剣だったし、あんなの見たことねぇよ…。あれはマジだぞ」
「そうだね。………私は、やはりハーウェルの言うハクこそが巫じゃないかと思う。ギルビスが言ってたじゃないか。ハーウェルの好みに合った人間が巫だって。ハーウェルは選び出したじゃないか、自分の力で」
「だが、否定しただろう。巫が無くしたっていう『欲と色』に心当たりはないって」

 明かりの灯った廊下に響く二人の足音。
「…それに、胡散臭すぎる。違う世界って……」
「近いうち、ハクに会ってきます。巫かどうか確かめるのもありますが、あれだけハーウェルが惚れ込んでるんです。どんな人物なのか純粋に知りたいでしょう?」
「そりゃ知りたいけどさ」
 心配げな顔でラウルを見た。
「私に任せて」
 ラウルは軽く答えて片目を瞑った。

「その前に、この紙切れをどうにかしないとね」
 顎で両腕の物をしめした。
 議事室で行っていた側室候補の資料整理はハーウェルの告白によって中断してしまった。恋人がいるといったばかりのハーウェルの前で、后になる巫を探すのも躊躇われた。
「やっぱり続けるのか?」
「当然でしょう。残り時間はあと一ヶ月しかないんだよ。もしかしたらこの中に本物が埋もれているかもしれないからね」
「それに、ハーウェルは伝聞のせいだと言ったけど、私には誰かの作為があったとしか思えない」
「…トゥルーフ様側の?」
 ちらりと視線をギルビスに流しただけで肯定も否定もしなかった。
「求めている側室の情報を偽っても、私たちの手を煩わせるくらいしか実害はないけど…。子供のイタズラでも早いうちに罰しないと、どんな大人に成長するかわからないからね」

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