ハクの見る空 11


「大丈夫か?」
 目尻にできたいく筋もの涙の痕を舐めた。塩辛い液体もハクから出たものだと思えば、甘く感じるのだから不思議だ。涙は後から後から湧き出る。
「どうした。気持ちよくなかったか?」
 そんなはずはないと知りながら訊ねた。ハクは声をあげて泣いていた。口を開けようとしても喉が鳴って上手くしゃべれない。落ち着けという意味を込め、唇をそっと額に押し付けた。

「っえっく…、へっへん……な…ふ、うっ…きも…ち……よ、よくて……ひっく」
「気持ちいいのが変なのか?」
 言葉の断片を読みとって口にすると、こくこく頷いた。
「俺がお前を気持ちよくさせてるんだ。変なわけないだろう?」
「だってっ……はっ…お、…う…へ…へんな…とこ、…感じて……うっく…ふ…」
 そう言って首にしがみ付いてきた。

 初めて経験した情交に頭がついてきていないようだ。見た目は子供のようだがちゃんと成人している。中身はしっかりしていて実年齢より大人びているように感じていたが、こういうことに関してはやはり子供だ。

 顔が勝手ににやける。
 体を重ねても未だ純粋で、穢れを知らないハク。俺の下で泣いている顔は本当に子供のようだ。最中に見せた艶かしい表情とはまるで別人だ。
 胸に込み上げる思いをのせ、唇に触れる。
「変じゃない。感じているお前はとても扇情的だ。見ているだけで興奮する。………わかるだろう?」
 ぴったりとはめ込んだまま止まっていた腰を、軽く揺すってやる。
「んあぁっ」
「お前のせいでこうなったんだ。責任をとってくれ」
 どうやって、と目で問われた。

「ここでイかせるんだ」
 大きく口を開けて俺を咥えているところを触る。入り口の襞がのびきって、必死で受け入れているのがわかる。二人の体に挟まれていたハクの性器がぴくんと反応した。繋がった境目をくすぐりながら、わかったかと耳元に囁くと何度も頭を振った。しがみつく腕に力がこめられた。俺はハクの首に顔を埋め、声をたてずに笑った。
「素直になれ。どうしたいか口に出すんだ。お前の快感が俺の快感に繋がるんだ。……どうしてほしい?」
 半開きの目にはそれでも迷いの色が見えた。頬に手を添え親指の腹で開いた唇を撫でた。赤い唇を分け入ると熱く熟れた舌が絡んできた。赤子のように指をしゃぶる。動かしてやると懸命に追いかけてくる。引き抜くとじゅっと音がして、名残惜しそうな舌がちらりと垣間見えた。
「どうしたい?」
 もう一度問うと、薄く開いていた唇が今度は素直に動いた。

「ほ、しぃ……。う…動いて…」
「動くだけでいいのか?」
「まっまえも……さわって? …いっぱい……ほしぃ。バンディも、俺できもっちぃいあぁっ!」
 我慢していたものが呆気なく崩れた。




 ハクはベッドの上で規則正しい寝息をたてていた。

 あれから数時間ハクを抱き続け、一息ついたのは日付がとうに変わった頃。あいつの名前を聞いて、つい箍(だが)が外れてしまった。こればっかりはハクの責任ではない。偽っている自分が悪いのだが、行為の最中呼ばれる名前が自分のものではないのがもどかしくて堪らない。黙らせたくて唇を塞ぎ、激しい刺激を与えてしまった。

 城を出て王子という自分の身分を隠す時、必ず侍従であるバンディの名を騙っていた。城に勤めながらも若い頃から奔放な暮らしをしてきたあいつに、一種の憧れを持っていたのかもしれない。その癖でハクにもあいつの名前を名乗った。偽っているのだから、相手がバンディと呼ぶのは当然で情交の最中でも気になったことは一度としてなかったのだが…。

 ハクは俺を受け入れ、何度も中で果てさせてくれた。初めはついてきていたハクも、後半になると声を出すのもやっとの様子だった。それでも、耳を刺激する荒い息づかいに行為を終えることができなかった。
 華奢な体形をしているが、軽業のような踊りをするだけあって体力がある。なおかつ体が驚くほど柔らかい。自分の思い通りに動いても少々なら大丈夫だろう、と判断したのが間違いだった。

 翌日は昨夜の疲れもあり、朝は起こさずに屋敷を出た。仕事の合間を縫って昼に食事を持ってきた時は、顔を赤らめて気だるげな仕草を見せるハクに自制が効かなくなった。挿入はしなかったが、お互いのものを擦りあい、吐き出してことを終えた。初めての行為で疲れてはいたが、しばらく寝て休息をとれば元気になるだろうと思い、寝ているように言い聞かせて城へと戻った。
 日も沈まないうちに帰ってくると、ハクは夜具に埋もれて浅い呼吸を繰り返していた。首に触ると高い熱ですぐさま城から医者を連れてきたが、薬を飲ませても熱は下がらず意識が戻らないまま二晩をベッドで過ごした。ずっとうなされていて、眉を寄せて悶える様子は鬼気迫るものだった。このままハクを失うのでは、と悪い考えが過ぎった。

 ハクを抱いてから三日目の昼前、ずっと枕元につめていた俺を薄く開いた瞳が見ていた。驚いて繋いでいた手をぎゅっと握りしめると、目を眩しそうに細めて暖かく笑った。右の眦からぽろっと滴が零れた。
 二日ぶりに目を覚ましたハクは熱もすっかり下がり体調も良くなっていた。

 顔にかかった黒髪をかきあげる。額に手のひらをあてるのは、ハクが寝込んでいた二日間にできた癖だ。額に優しく口付けると、長いまつ毛の間から底の見えない黒い瞳が現れた。抱き起こしてハクの背中に寄り添い、胸にもたれさせる。
「俺、どんくらい寝てた?」
 午前中に初めて起きた時は、医者に体調を確認させるとすぐ眠ってしまったのでろくに話をしなかった。ハクが眠っていた時の話をしてやると目を丸くした。
「三日間もここに居たって?! どうしよう、早く帰んないと」
 慌てて腰を上げようとするのを抱きとめる。
「酷い熱だったんだ。呼びかけても反応せず、ずっと苦しそうにうなされていた…。広場には使いをやって知らせてある。心配しないで休め」
「でも…、俺なんともないよ? あと少しでみんなと別れるのに……。熱が下がったばっかだからって寝てらんない。仕事できなくたって残り少ない時間を、みんなと劇団で過ごしたいんだ」
 きつく結んだ唇に、遠くを見据える大きな瞳、強い意志を宿している。この横顔を美しいと思った。

「仕方がない…。だが、少なくとも今日は働かずにゆっくりしていろよ。二日間も寝たきりだったんだ。体力が落ちているからな。それに、恋人の身を心配する俺の気持ちも汲んでくれ」
「えっ…う、ありがとうバンディ」
 白かった頬がたちまち桜色に染まって、恥ずかしそうに俯いた。その頬を指先でするっと撫でて体を離す。
「あ、あぁ……。腹は減らないか? 柔らかいものなら食べれるだろう」
 ハクを横たわらせ上掛けでしっかり包んでから部屋を出た。




「…ん、はあぁ」
 口の中の食べ物を飲み込んでため息をついた。千切ったパンをまた口に放り込む。今度はスープに少し浸ってみたが、結果は同じ。もそもそしたパンに唾液が吸い取られる。

 城にきて一晩経った。迎えに来てくれたバンディに連れられて、夕方頃城にたどり着いた。楽芸部を総括する楽芸長官に挨拶をして、芸人方の責任者に仕事場になる楽芸館と、生活する宿舎を説明してもらって初日を終えた。
 風呂と食堂は共有スペースになっていた。部屋は相部屋で、ベッドと机とタンスがあるだけのとても簡素な作りだった。劇団ではテント暮らしでベッドもない生活をしていたので、清潔そうな真っ白の寝具は魅力的だった。緊張で疲れたのか、ベッドに倒れるとすぐに意識がとんだ。

 今日は朝から楽芸館へ行き、一日の生活を教えてもらいながら一緒に過ごした。俺の面倒を見てくれたのは、同室でもあるオルハイノという芸人だ。まだ十八歳なのに筋肉のついた立派な腕をしていて、エヌオット人の中でも背が大きい。切れ長の目と口角の下がった口元が怒っている顔に見えて、非常に話しかけづらいやつだ。でも、一日一緒にいてこういう顔だとわかった。そしてちょっと暗い。放っておくと何も言ってくれない。あれはどういうことだ、と聞かないと教えてくれない。


「ふう…」
 口を尖らせて息を吐いていると、隣の席に座るオルハイノと目が合った。何か言いたそうにこっちを見ている。早く言えと意味を込めて睨んでやった。
「……さっきから何だ。ため息ばかりじゃないか」
 俺、そんなにため息ついてたんだ。
 素直にごめんと謝った。肉が入った皿とスープのカップを隣へ押しやる。

「よかったらこれも食わないか? ほとんど手ぇつけてないから」
「いらないなら貰うが、…お前昼も食べてなかったよな。食わないと体動かないぞ」
「そうだけど……」
 わかってるけど、食べたくないんだ。お腹はすくんだけど、食べ物を口にしても美味しくない、というか……味がしない。

 バンディの別荘で寝たきりになって、久々に食べたのはバンディが作ってくれたミルク粥。お腹が減っていた俺は、湯気に乗って香るミルクの優しい匂いにがっついた。でも、それは最初だけで三回、四回と口にスプーンを運ぶとスピードは遅くなり、ついには止まった。ミルク粥の匂いを嗅ぎながら、どうして味がしないんだろうと考えた。高熱が出た後だし、風邪の時に味がわからなくなるのはよくあることだと納得して、隣に腰掛けて食べている俺を見守っていたバンディに笑いかけた。
 だが、あれから四日経つのに未だに味覚が戻らない。
 さすがにおかしいだろう。熱のせいでどうにかなったのかなぁ。あ、でも味覚異常って最近の若い人に多いって聞いた覚えあるぞ。女の人に多いらしいけど……。確か亜鉛が不足してなるんじゃなかったっけ。…亜鉛て何に入ってるんだろう。

 黙っている俺に推し量るような目を向けている。
「えっと、ちょっとね。……そうだ、城へやってくる王族でジュゼルって人に会いたいんだけど、知ってるか?」
「ああ確か、王子の従兄弟にあたる方か?」
「え? 王子様の従兄弟なの?」
 ジュゼルは国王様の親族だって言ってたけど、王子様の従兄弟だったのか? 王子様の悪口言ってたけど…。

「そのジュゼルって人はグレーの目ぇしてる? 俺が知ってるジュゼルは、髪は短い金髪で顔立ちの整ったすごい美人なんだけど」
「俺は噂を耳にしたり遠目で見たりしただけで、目の色までは知らないな。顔もちゃんと見たことはないが、他のやつらが言うには綺麗な人らしいぞ。同じ人物かもしれないな」
「……今度いつ来るか知らないか?」
「そこまではわからないが……。明日王族が集う定例会があるんだ。毎月開かれている。ジュゼル様も王族だから必ず定例会には出席されるだろう」
「本当か?! 定例会ってどこでやるの? どこに行けば会える?」
 俺はがたがた椅子をならして、オルハイノの肩に食らいついた。身を引いて思いっ切り顔を顰められた。



 夕食が終われば後は個人の自由時間だ。楽人たちは夜になっても練習する人もいるらしいが、芸人たちは夜の薄暗い照明の中で体を動かすのは危険なので練習しない。風呂に入って疲れた体を休める人が多い。
 エヌオットの共同浴場を宿舎で初めて見た。脱衣室は日本の銭湯などとかわらないが、熱い風呂場とは別に冷たいプールがあって、その間には体を休める休憩室もある。三つの部屋を何度も行ったり来たりするのが、この風呂の入り方らしい。
 俺はその入り方は倣わずに、体を洗って熱い風呂に入った。日本の温泉が大好きだけど、長々入るのは嫌いだし、全然知らないやつらと素っ裸で世間話できるほどおおっぴらな人間でもない。

 部屋に帰るとオルハイノもすぐ戻ってきた。俺はベッドの上でいつもやっている柔軟をしていた。それを見ていたオルハイノが気になっている様子だったので、やり方を教えてやって一緒に体を解した。
 オルハイノも舞手で、今日見せてもらった踊りには圧倒された。体が大きく手足が長いオルハイノは動きが派手で、他の舞手と一緒に練習していても際立っていた。ゆっくりなのに止めるところはビシッと決めて、少し空手の形に似ている。動きの一つ一つに無駄がなく、あの筋肉はこの動きのためにあるんだと思った。

 まだ日が沈んで間もないが、部屋の明かりは消してある。電気がないので夜の照明はランプかロウソク、日中の気温が高いせいか一日の始まりは涼しい早朝から。だから当然寝るのも早い。
 熱い湯と柔軟運動のお蔭で少し火照った体に心地良い疲労感。睡魔がすぐそこまで来ているのがわかる。でも俺の目は暗い天井をじっと見ていた。眠たいけど寝れないのだ。寝たいけど、少し寝るのが怖い。
 バンディの屋敷で高熱をだして寝込んでいた時、俺はずっと夢を見ていた。それは最初夢だと気づかないくらい現実感のある夢だった。


 ピサリの街だった。街並みに見覚えはなかったが、王宮の三本の尖がりが近くに見えた。人の気配も風の動きも動物の鳴き声も聞こえない、静かな夜だ。月明かりもない街は真っ暗闇だったが、俺の視界は暗視カメラの映像みたいにはっきりしていた。窓辺に置かれたクロッカスみたいな藤色の小さな花、群青色の鮮やかな扉の家、道の端が少し窪んで凹凸ができた石畳、脇道から見えるアーチ状の水路。自分の目で今見ているとしか思えないほど、詳細な景色。

 しばらく街並みを見回っていると、急に辺りの空気が変わったように感じた。周辺をきょろきょろしてもどこにも変化はない。でも、俺の心臓はドクンドクンと存在を主張しはじめる。喉が渇いた。どこかに原因があるはずだと、俺は夜の街中を彷徨った。当てもなく歩みを進めているのに、目的の場所へと吸い寄せられるような感覚。分かれ道に迷いもせず、進むにつれて高鳴る胸騒ぎに気分が悪くなる。ようやく立ち止まったのは何の変哲もない路地。そこまで来ると、今までの動悸は嘘みたいに消えた。何をそんなに焦っていたのか、自分でもわからない。やっぱり何もない。勘違いだったんだ。ほっとしていると、空気の揺らぎが伝わってきた。見ると壁が燃えている。いくつか置いてあった大きな麻袋から炎が上がっている。早く消そうと思ったが、体が動かない。炎はどんどん大きく勢いを増して建物まで飲み込んでいく。俺には感じられないが風があるようだ。火柱が斜めに傾いでいる。風が強いうえに乾燥した気候なので火の回りが驚くほど速い。
 炎が広がっていく様子は早送りにしたビデオみたいだった。いつの間にか街中が真っ赤に染まっている。俺は呆然と見ていた。どうすることもできない。ピサリの街が焼けてしまう、ここの住人たちが死んでしまう。そこまで考えてふと思い出す。

 ポンマルト広場はどうなっているんだろう。ウルヌスたちは火事に気づいて上手く逃げ出せただろうか。
 自失していた頭が動きだす。

 …バンディは? 

 夜だから城にいるはずだ。この勢いではピサリの街のほとんどが炎に呑まれてしまう。炎が城に届くのも時間の問題かもしれない。早く知らせてバンディを助けないと。
 景色が変わって、広い部屋に大きな天蓋付きベッドがある。その上の上掛けの膨らみがバンディだとすぐわかった。近付いて声をかける。

 バンディ起きて、街が大変なんだ。すごい火事でピサリの街中が焼かれそうなんだ。城に火の手が上がるのも時間の問題だよ。早く起きてここから逃げよう。
 大声で叫んでいるのに、バンディは身動ぎもしない。体を揺すりたかったのに、なぜか手が出なかった。動かせるのは口だけのようだ。俺はとにかく大声で叫んでいた。

 このままだと城も焼ける。早く逃げないとバンディが死んじゃう。目を覚まして、早く起きて。お願いだから起きて。お願い、お願いだから…。死なせたくないよ。バンディ、早く目を覚まして。お願い、起きて。起きてよ。頼むから起きてくれよ。バンディ起きてくれ―――


 まぶたを上げるとベッドの横で暗い顔をしたバンディが座っていた。その手にあるのは俺の手で、不思議な気持ちで見ていると目が合った。目を見張って言葉も出ない様子だったので、安心させるために笑った。笑った拍子に涙がぽろっと零れた。それで気づいた、自分が安堵してることに。夢でよかったって。

 思い出すと会いたくなってしまう。昨日会ったばかりなのに。

 俺を送ってくれたバンディとは城門の前で別れた。必ずすぐ会いに行くから待っていろと言われた。楽芸人の俺と近衛師団団長のバンディとでは身分が違いすぎて、俺からは会うことさえ難しいらしい。今までだって待つ身だったけど、広場と城の距離の違いにやるせない思いが湧いてくる。
 近くにいるのに会えないって、こんなに辛いんだなあ。

 寝返りを打つと、隣のベッドからも寝具の動く音がした。
「…眠れないのか?」
「ごめん、起こした? 煩かったかな」
「いや、そういうわけじゃない。…何か考え事か?」
「うん、まあね」
「……残してきた家族や友人を思うのは仕方がない。ここに来る誰もが一度は思い悩む」
「え、あっ違うんだ。残してきた人を思ってたわけじゃないよ。これが一生の別れになるわけでもないし」
 オルハイノには理解できないようだった。
「だって、上手くいっても俺たち体を動かすのが資本だから、二十年勤め上げるのがやっとだろ。途中で辞めたらもっと早くなるし、一生会えないなんて決め付けるのはよくないよ。俺はいつか絶対会えるって信じてるよ」
「ここにいる間は全く会えないのに?」
「仕事だから仕方ないよ。全然平気かって聞かれれば、まあちょっとは寂しいけどさ。会うことはかなわないけど、どこかでみんなご飯食べて仕事して寝て生活してるんだ。今も、イビキかいたり寝言いったりしてみんなで寝てんだろうなあ、と思うと寂しいのも吹っ飛ぶよ。俺がいる空間は間違いなくみんなに繋がってるから、会おうと思えば会えるんだ。俺は城で生活するって決めたからしばらくは会えないけどね。でも時々、あいつ元気にしてっかなって思い出してもらいたいな。二十年後に会って「だれ?」とか言われたら泣くもん」

「すごいな」
「なにが?」
 訊ねても「何でもない」と言うだけで教えてくれなかった。

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