存在意義


 サウナのような部屋で、頭から羽毛ふとんをかぶっていた。タオルケットにくるまって震えているより、押入れからふとんを出したほうが面倒でも治りが早いと思ったからだ。
 金曜の朝から肩が痛かった。寝相が悪かったのかと思っていたが、寒気がするので昼休みに風邪薬を買って飲んだ。腕をさすりながらパソコンに入力して、帰りは電車をやめてタクシーにした。念願だったふとんに崩れ落ちると、すぐ意識を手放した。
 目覚まし時計を見ると九時を過ぎていた。昨日の夕飯も朝ご飯も食べていないが、食欲はわかない。ふとんから出た首にタオルを巻きなおして目を閉じた。
 次に目を覚ましたのは暑さのせいだった。足元で蹴られたふとんが山をつくっていた。パジャマがわりのTシャツが湿っていて気持ち悪い。エアコンのスイッチを入れて風呂に入った。
 風呂上りに冷蔵庫をのぞいてみたが、すぐに食べれるものはない。ペットボトルの水だけ飲んでふとんに入った。
 一日中寝ていたので、さすがに寝れそうもなかった。時間はまだ五時。カーテン越しにも外の明るさがわかる。テレビをつけようかと思ったが、テーブルの上にあるリモコンを取るのがだるくてやめた。携帯電話もテーブルの上だ。
 溜息が出た。
 せっかく休みなのに、部屋にこもって寝ているだけだ。明日もきっと同じ。熱のせいで二日間の休みが消える。寝込まなかったら何をしていただろう。洗濯してふとん干して、スーパーに買い物にいって…、くだらない。ふとんのなかで過ごすのとそんなに違いはない。看病にきてくれる彼女も、電話してくる友だちもいない。僕ってこんなに一人ぼっちだったっけ。
 視界を遮断すると、耳から入ってくる情報に神経が集中する。目覚まし時計の秒針がこちこち、とうるさかった。自分の呼吸の音がする。シーツなのか枕なのか、布がすれる音が続いている。動いていないつもりでも、こんなに音をたてているんだ。心臓が動いて、血液が流れる音がする。
 人間てうるさいな。生きてるとうるさいもんなんだな。

 今日は土曜日じゃなかった? そうだ、昨日は仕事だったから今日は土曜日だ。彼はバイトに行っているはず。夕方だから、そろそろ帰ってきているかもしれない。元気だったら二人分の夕飯を作って、彼の部屋に誘いにいくのにな。
 二つ隣の部屋に住む菅原くんは大学生でお金がない。夕飯をカップラーメンやご飯だけで済ませているのを知ってから、よく僕の手料理を食べさせている。同じアパートに住んでいるよしみ、もあるけど僕は彼が面白かった。信じられないくらいしゃべらないし、話しかけても聞いているのか不安になるくらい無反応。同じ部屋にいてもずっと背中を丸めて本をにらんでいるので、存在を忘れてしまうほどコミュニケーション能力が著しく低い。でも、僕が質問するとちゃんと答えてくれるし、自分の意見もしっかり持っている。答えてくれるのが嬉しくて、菅原くんにする話題がないかといつも検知器をオンにしている。
「……」
 あれ? 寝てた?
 いつのまにか寝ていたようだ。外はまだ白いので数分気を失っていたんだろう。
 ゆっくり足を運んでドアの外を確かめた。カギをあけて、熱い日差しと空気を入れてやる。いつもの黒いカバンをかけた菅原がいた。
「菅原くん、バイトから帰ったとこ?」
 いつもより時間のかかった瞬きが一回。
「僕昨日から風邪でね、ずっと寝てたから今はマシになったけど。今日は夕飯食べさせてあげる日なのにごめんね。菅原くんにうつすと悪いから…」
 じゃあね、をいってドアを閉めようと思ったが、菅原の様子に気がついた。
「あれ? 菅原くん何か用事?」
「ご飯、食べてないの?」
「あ、うん。食欲は戻ったけどちょっと面倒で」
「何が食べたい?」
「え?」
「なに?」
「え、ううんと。…ゼリー、かな。あの袋に入った飲むやつ」
 僕の言葉をきくと、菅原は体を四十五度回転させて歩きだした。
「あの、菅原くん」
 ドアの隙間から頭を出して後姿を目で追った。
「カギあけといて」
 初めてきいた、菅原の大きな声。一般人の基準からすれば普通くらい。でも、菅原にとってはかなり声をはっていた。僕は返事もしないで、背中が消えた階段を見ていた。
 戻ってくると、両手にレジ袋を提げていた。ふとんで寝ていた僕に一つをわたすと、残りの袋からお弁当を取り出して食べはじめた。菅原は食べるのが早い。次々と口に食べ物を運ぶ横顔を見て、僕も食欲がわいてきた。
 買ってきてくれたゼリーはよく冷えていて、熱い体に心地良く入ってきた。飲み終えると急に眠たくなってきた。テーブルにあった弁当はすでに片付けられ、分厚い本を膝に抱えていた。
「暗くなったら電気つけていいからね」
 目をつむりながら、二十歳を過ぎた大学生にいうことじゃないなと思った。

 両手をあげて全身を伸ばした。さっきより頭が軽い。熱も平熱じゃないだろうか。カーテンからは何の光もこぼれていなかった。何時だろう。体を起こして時計の辺りを見たが何もわからない。
 ぱち、という音がして視界が明るくなった。驚いて音のしたほうをみると、菅原が床に座ろうとしている。テーブルには分厚い本。
「す、菅原くん、いたんだ。真っ暗だから誰もいないと思ってたよ」
 目だけが僕を見ると、すぐ本に目を戻した。
「ちょっと、心臓に悪いな」
 声は届いているはずなのに、こっちを向こうとはしない。
「菅原くん真っ暗んなかで何してたの?」
「考えごと」
「どんな?」
「セミナーで出された課題をどうやって解くか」
「あ、そう」
「なんで電気つけなかったの? 僕つけていいって言ったよね」
「起こすかと思った」
「僕が寝てたから?」
 本の内容に納得するかのように、頭が揺れた。だけど小さく。
「そっか」
「気を使わなくていいのに。なんで部屋に戻らなかったの?」
「カギかけないと」
「なるほど」
 ぱこんと、こもった音をたてて本を閉じた。本とカバンとレジ袋を持って、菅原はドアに向かう。
「帰るの?」
「カギ、かけられるだろ」
「うん」
「帰ったらなにするの?」
 片手に持った本を持ち上げた。
「じゃあ、うちにいてよ。どこで読んでも一緒でしょ」
 靴に片足をつっこんだままで止まった。
「病気になると一人って心細いんだよね。だからもう少しだけ」
「電気つけるまで、一人だと思ってたんだろ。実際は俺がいた。でも暗くてわからなかった。同じ空間に二人でいても、一人だと誤認すれば一人と同じ。その反対、一人でいるけど二人でいると自分自身を錯覚させれば、誰かといるのと同じ」
 廊下に残っていた足も靴に入れてしまった。
 もしかして。
「二人いるのに一人っていうのは、勘違いしてれば簡単だね。でも反対は難しい。一人でいるのに誰かと一緒だと思い込ませるんでしょ。観察力と想像力が必要だね。僕には無理だ」
「二つ隣の部屋だ」
 機嫌が悪い?
「声が届かないよ」
 レジ袋を提げた手が、ドアノブに伸びる。
「冷蔵庫に入ってるビール飲んでいいからさ」
 カギを開ける音は続かない。
「読書の邪魔しないし」
 靴を脱いでまた同じ位置に腰を下ろすのを、僕は笑顔で見守った。必要以上に笑わないようコントロールするのは難しい。
「寝たら帰る」

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