クライクライ


 薄暗い照明の下に細長い影が立っていた。アパートの廊下なので人がいるのはあたりまえのことだが、僕は怖くなった。その人は僕の部屋より二つ手前、階段から二つ目のドアにいた。カギを取り出す様子もなく、ただじっと立っていた。
 一番に考えたのはストーカー。でも、あの部屋の住人の知り合いかもしれない。ジーンズに暗い色のTシャツ、肩には大きく膨らんだカバンをかけている。すぐ後ろを通っても振り向きもしなかった。隣の部屋のドアを通り過ぎる。蛍光灯の光が瞬いて、僕は立ち止まった。
「あの、どうかしました?」
 声がかすれていた。ドアに向けられていた視線が僕をとらえた。相手が何かをつぶやいた。
「え、なんて?」
「カギが…」
 後戻りして彼に近づく。
「カギがない」
「部屋のカギ、なくしたんですか?」
 わずかに顎を引くのがわかった。
「よく探しました?」
「大学に忘れてきた」
「取りに戻るんですか?」
「もう閉まってる」
「じゃあ、ここ管理してるところに連絡してみればどうですか?」
「連絡先知ってるの?」
「いや、知りません」
 彼は部屋のドアを見て階段のある方向に歩きだした。
「え、あの、どうするんですか?」
「別の場所で寝る」
 横顔だけが振り向いた。
「あて、あるんですか?」
「そこ」
 長い腕が先をしめす。彼の体を避けてのぞいてみたが何もない。あるのは暗闇に溶けた階段。

 彼の名前は菅原清人、近くの国立大学に通う三年生。専攻は建築工学で、よくわからないがコンクリートのことなんかを勉強しているらしい。
 僕の作った豚キムチを食べながら聞きだせたのはそれだけだった。何故って無口だから、彼は僕が今まで会った人間の中で一番無口だと言い切れるくらいしゃべらなかった。よくここまで聞きだせたなと、自分でも思う。僕が十しゃべっても彼は一も返してくれない。髪の毛が揺れて、もしかして今のは頷いたのかなとか、顔がわずかに傾いて、今のは違うっていうことかなとか。コミュニケーションをとるのにこれほど努力したのは、中学二年の時にできた初めての彼女以来だ。
 豚キムチの赤い汁だけを皿に残し、彼は食器を運んでいった。
「あ、置いといてくれていいよ」
 彼の頬がちらっと見えた。
「先にシャワー使ってよ。その間にこれ食べるから」
 流していた蛇口を閉めた。僕の意見に納得してくれたようだ。
「そこの押入れに服が入ってるから、適当に選んで着て」
 彼の目が押入れに向いた。勝手に開けるのは気が引けるのかもしれない。箸を置いて、押入れの戸を引いた。畳んだ洋服の中から、合いそうなものを探し出す。
「これならサイズ大きいから大丈夫じゃない?」
 白地に大きなロゴの入ったブランドのTシャツを広げる。僕が着るとだぼっとしてしまうが、身長の大きい彼にはちょうどいい。受け取って風呂場に向かう背中に、タオルの置き場所を教えた。
 翌日、パジャマがわりにしたTシャツを着たまま、彼は大学に行くといって家を出た。
 ちょっとウキウキしていた。久しぶりに誰かが家に来て、一人じゃない夕食をとって嬉しかったのかもしれない。大学に進学して就職をしてから八年たった。慣れているつもりだが、やっぱり一人は寂しい。仕事絡みではない人と接するのもたまにはいい。自分の人生が仕事だけではない、という幻想をもたらしてくれる。
 週末の朝、部屋の前を通ると彼が顔を出した。
「おはよう」
 彼の口が「おはよう」という形に動いたように見えた。
「今日は大学休みでしょ。朝からどこか行くの?」
「いや、コーヒーを飲もうと思って。出かけるの?」
「え? あぁ、買い物に行こうかなと思ってね」
 はみ出していた半身がドアに吸い込まれていく。部屋に戻るつもりだろうか。何のために出てきたんだろう。
「あ、もしかしてコーヒー飲ませてくれるの?」
 彼が目を伏せた。
「じゃあ頂こうかな」
「買い物」
「コーヒー飲んでから行くよ」
 ドアの中に彼が消えたので、閉まりきらないうちに僕も続いた。
 部屋は間取りも広さも全く僕と同じはずなのに、全く違った。何がって、物がない。入った正面の壁に折り畳まれたふとん。左側の壁にひっつけて置かれた低いテーブル。テーブルの上にはパソコンのディスプレイと辞典のように分厚い本。その脇に置かれたいつものカバン。
「物少ないねえ」
 狭いキッチンスペースでコーヒーの準備をしている。絨毯も座布団もない畳の上に座った。
「砂糖とミルクは?」
「何もいらないよ」
 両手に持ったカップをテーブルに置いた。茶色の液体が波を立てている。
「コーヒー好きなんだね」
 流し台の上に空になったサイフォンが置かれている。
「僕の分入れといてくれたの? 用意するの早かったから」
「二杯分入れてた」
「部屋を出たのわかったの?」
 彼の目がカップの中に落ちた。
「どうして?」
「足音が聞こえたから。うちの前を通るのは白石さんか隣の人しかいない。隣の人は週末も仕事してる」
「朝も遅い時間に通るのは僕だけっていうこと?」
「そう」
「菅原くん面白いね」
「そう?」
「そう」
 熱い液体に口をつけた。

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