闇にキス


 窓から入る自然光で本を照らす。両手の上に広げられた小さな無限の大地に太陽が降り注ぐ。黄金色に輝く穂が風に揺れてさわさわと音をたてる。大きく肺に空気をとりこむと小麦のほのかな青臭さと土の温かな匂いが僕を包む。

 畳の上にあぐらをかいている僕は、小麦畑にいた。
 収穫にいそしむ農婦たちの息遣いが聞こえてくる。手を伸ばせば触れられる。
 
 右半身を熱いほど照らしていた太陽の気配が感じられない。外の景色はいつのまにかオレンジ色にかわっていた。時間は六時をすぎている。カーテンを閉めると部屋には何の光も届かなかった。
 
―――そうだ。
 
 テーブルの前に一段と暗い影があった。近づいても全く動かない。彼は、大きな背中を丸めたまま固まっていた。足の上に置かれた分厚い本は、拷問に使用されるおもりのようにも見える。うつむいた顔をそっとのぞくと彼のまぶたは閉じていた。文字を識別できるような明るさではないのだから当然だ。でも、本を読んでいるときと違っているのは、まぶたが開いていないことくらいしかない。
 膝の上で開いているページをさわった。指を滑らせて不ぞろいな角に行き着く。指の腹でページを一枚探る。紙が音をたてないように、ゆっくりページをめくった。薄い紙が揺れる。彼の顔に変化はなかった。屈んでいた姿勢から起き上がる。テーブルに手をつこうとして、もう一度彼の膝に顔を近づけた。並んだ文字は日本語のようではあったが、縦書きではなさそうだ。僕の前髪の向こうに顔があった。まぶたは開こうともせず、静かに呼吸を繰り返す。彼の湿った息が僕の肌に広がった。僕は少しの間息をとめた。
 体を引きながらまぶたを開くと、黒くて深い闇が二つ。待ち構えているようだった。
「あ」
 照明のスイッチに飛びついた。明るくなっても彼の姿勢は変わらない。
「夕飯作るね」
 キッチンの流しで手を洗う。冷蔵庫の扉を開けて中身の確認をした。紙のこすれる音がした。

 次の日の朝。僕が部屋の前を通ると、ドアの隙間から彼の目が見えた。
「おはよう」
「おはよう。コーヒー」
 部屋からいい香りが流れ出ている。僕はコーヒーの香りを確かめてから部屋に入った。テーブルの横に座るとすぐにマグカップが運ばれてきた。クリームも砂糖も入っていない。彼も同じ。反射する液体の表面を見た。口につけてから隣を見た。彼は昨日と同じように分厚い本を膝の上で開いていた。
 ページをめくる音。
 菅原はいつも本を読んでいる。本を読んでいないときは食事をしている。部屋にいるときはパソコンをしているときもある。大学に提出する文章を作成するのだ。最近はパソコンをしていることが多かった。それも今週完成したらしい。テーブルに置かれたデスクトップの電源はオフになっていた。
 ページがめくられた。
 菅原がどんな本を読んでいるのか知らない。初めの頃は興味本位でたずねていたが、僕には全くわからない本ばかりなので聞かないようにしている。文字数はたぶん多いと思う。写真や絵の入ったページを見たことがない。彼は本を読むのが早いんだと思う。
 彼がまたページをめくった。
「あの」
 横目でうかがうと、彼は顔さえ上げていなかった。
「これ飲んだら帰るね」
 髪の毛が揺れたようにも見える。彼はそういう人間だ。

 僕の部屋でスパゲティを食べた。彼は美味しいとか、料理の感想をいわない。美味しいときは黙々と食べる。それ以外のときも黙々と食べる。おかわりあるよ、と言うと黙ってキッチンに向かう。それが美味しいという証だと思う。今日のスパゲティは、作った総量の三分の二を食べてくれた。きっと気に入ってくれたんだろう。
「菅原くん」
 本から顔を上げた。目を眩しそうに細めている。
「先週、そこで」
 彼はテーブルの前で座っている。今も、先週も。
「本読みながら…、寝てた、よね?」
 じっと動かずに、僕の続きを待っている。
「あの時、僕が…したこと覚えてる?」
 下を向いて息を吐いた。意識してゆっくり呼吸をしながら彼を見ると目があった。
「ページめくった」
「え?」
 この位置からはテーブルに隠れて本が見えない。
「あ、うん。ちょっとした出来心でやっちゃったんだけど…。やっぱりバレたんだ」
「キスした」
 彼の唇を見た。これが動いたんだろうか。
「えっあのぅ」
 視線が本に戻った。
「あの、僕が。キスしたの、知ってたの?」
 彼がうなずく。
「じゃあ、あの時起きてたってこと?」
 同じ動作を繰り返す。
「ど、どうして何もいわないの? 起きてたんなら何かいうでしょ」
「起きて薄く目を開けたら白石さんがいた。近かったから、何してるんだろうと思った。顔が近づいてきたときにキスするのかなと思った。でもイヤじゃなかったから動かなかった」
「え」
「そのあと、目があったのに白石さん何もいわずに離れていったから、俺も何もいわなかった」
「ああ、なんか。よくわかんない」
「菅原くんは起きてて、僕がキスするの知ってた。それで、その…イヤじゃないからじっとしてた。何もいわなかったのは、僕が何もいわなかったから…?」
 混乱した頭の中を、口に出して整理した。彼はゆっくりと目を伏せる。
「あの、えっとじゃあ…。僕は、どうしてかわからないけど菅原くんにキスしたいなぁと思ったんだ。何もいわなかったのは。菅原くんが、僕がしたこと気付いてるのかどうかよくわからなかったし、寝てると思ってたのに目があって、焦ってどうしていいかわからなくなって」
 膨張した体内の空気を突然抜かれたようにテーブルに倒れた。
「菅原くんは…僕とキスしても、本当にイヤじゃない?」
「イヤじゃない」
 はっきりとした声に背筋を正した。彼も僕を見ている。
「今しても?」
 視線が少しはずれて、すぐ戻ってきた。
「イヤじゃない」
 もう一度ゆっくりと答えた。
 テーブルに手をついて腰を浮かせた。彼の顔が近くなる。視線はずっと重なっていた。目を閉じてくれればいいのにと思った。それでも彼を見ていたかった。
 そっと触れた。
「オリーブオイルだ」
 間近で見る彼の唇は光っていた。スパゲティに入れたオリーブオイルのせいだ。僕にも付いているはずなので、触れるとつるっとすべった。彼の唇に舌をはわせたが何の味もしなかった。上唇も下唇も同じように舐めた。無駄なことを繰り返していると、舌が唇の間に入っていった。熱い口の中で彼の舌に触れた。それを吸うと、テーブルを押しのけ本を床に落として彼の膝にまたがった。

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