2 遠藤くんの 女は強い


 誰もいない朝の教室は、なんだか特別な気分にさせる。それに早い時間に自転車をこぐのも気持ちがいい。教室のドアを開けると、一番近くの席の笹田が一人座っていた。
「お、おはよう。びっくりしたぁ。いつも僕が一番だからさ。今日は笹田どうしたの?」
 うつむいている笹田の顔をのぞきこむと、眼が少し赤かった。もしかすると、泣いたんだろうか。
「どうしたのほんとに。なにかあった?」
 僕は彼女の隣にしゃがみこんだ。これ以上顔を見るのは失礼な気がしたので、頭をぽんぽんとさわった。笹田が反応しないので、僕も黙って頭をなでていた。うかがうように上げられた瞳にはたくさんの涙が溜まっていて、笹田が瞬きしたのでそれがほろほろと下に落ちていった。驚いて止まっている僕の体に笹田の腕が巻きついた。僕の胸の下辺りに、熱い呼吸が伝わってくる。行き場を失った手を、小さな丸い背中にそっと置いた。笹田はしばらく声を漏らしながら泣いていた。その間ずっと、僕は彼女の背中をさすっていた。校舎の外が騒がしくなってきた。笹田も窓の外に目をやっていた。目が合うと、少し切なそうな痛そうな複雑な笑顔を返してくれた。
「顔洗ってこいよ。冷やせば少しは腫れもおさまるよ」
 うなずいて足早に教室を出た。笹田はなんで泣いたんだろう。

 遅刻寸前で教室に入ってきた松尾には何もいわなかった。松尾に秘密を持つことは後ろ暗かったけど、笹田の泣き顔を思い出すと絶対に他人にはいえない。笹田はまだ少し腫れたまぶたをしていたが、クラスの友だちと普通に笑っていた。女の子は強いな。何があったのかはわからないけど、笹田の様子からして相当まいっていたはずだ。なにしろ、こんな僕の胸を借りてまで泣くくらいだから。でも、今は普段とかわらない。心の中はもやもやしているのかもしれないけど、それが顔に出ていない。男なら無理だと思う。僕なら真っ直ぐ家へ帰っているだろう。女の子って見た目はか弱いけど、中身は本当に強い生き物だ。
 現代国語の先生が教壇を下りると、背中をつつかれた。松尾がシャーペンの尖ったほうを僕に向けていた。
「遠藤、今日俺んち来る? この前出たゲーム買ったんだ」
「マジで? 行く行く。行きますとも」
「俺、遠藤んち行ったことないよな。たまには呼べよ」
「ん、そうだったかなぁ。また今度ね」
 松尾の家は僕の家とは逆方向だったが、電車で三駅の距離なので帰りもそんなに苦にならない。僕の家は学校から遠いし僕だけ自転車なので、自然と遊ぶのは松尾の家と決まっていた。
「前から気になってたんだけど、家に来て欲しくないの?」
 松尾はこういうところが敏感で困る。
「まさかあ。ほら、うち遠いからさ。僕自転車だし、松尾が帰るとき面倒かなと思ってね」
「じゃあ夏休みにでも泊まりにいく」
 僕に聞かないんだ。勝手に決定するんだね。僕は松尾から逃げる口実ではないけれど、トイレに行くといって席を立った。教室から一番近いトイレに行くと、何故だか満員で廊下に順番待ちの列さえあった。仕方なく、下の階にあるトイレに変更する。二階にはクラスがなく、化学室や地学室などの特別教室しかないので利用する人は少ない。予想通り、二階のトイレに先客は誰もいなかった。僕が開放感に、ほえぇとなっていると誰かが隣にやってきた。すっきりしてチャックをあげるとその人と目があった。
「昨日の」
「え? ああ、自転車の」
 隣で仲良く用をたしていたのは、昨日僕を注意してくれた人だった。僕が笑ってトイレを出ようとすると、彼の声に呼び止められた。
「手、洗ったほうがいいよ」
 彼はポケットから取り出した、アイロンのかかった白いハンカチを口に挟んで手を洗った。僕も隣で手を洗うと、すっと白いハンカチが差し出された。拭くものなど当然持っていなかったので、ありがたく受け取る。二人分の水分を拭き取ったせいで、なんだかぐっしょりしているハンカチを申し訳ない気分で返すと、彼は気にせず笑ってポケットにしまった。
「ありがとう」
「いいえ」
 それだけいって、彼はトイレを出ていった。

 教室に帰るとトイレが長い、と松尾に文句をいわれた。
「気になるならついてくればよかったのに」
「イヤだよ、連れションなんて。遠藤のくせに生意気」
「遠藤くん」
 笹田が近くにいた。本当に、いつもの笹田の顔、だ。
「放課後話せる?」
 僕がうなずくと、笹田も笑ってうなずいて席に戻っていった。話って、やっぱり今朝のあれかな。相談とか、されるはずないよな。僕はそんな頼れるタイプじゃないしね。笹田の話について考えていると、鋭い視線が後頭部に刺さってきた。もちろん松尾だ。振り向かないでいると、頭をぺしっと叩かれた。
「お前、笹田と話ってなんだよ」
「痛いって、僕に聞かれてもわかんないよ」
「大体はわかるだろうが。心当たりねぇのか」
「たぶん、あれかなぁっていうのは」
「あるんだ」
 なんだろうこの人は。僕の奥さんだろうか。

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